今からもう10年以上前のことになるが、当時私は上海の郊外に住んでいた。
上海人の友人の実家は、大半の家族が結婚してヨソへ移ったり、仕事で遠方に行ったりで家を出て、父は早くに病気で亡くなっていたので、広い家の中には80歳ぐらいの老母1人しか住んでいなかった。
「郊外」だが徒歩20分ぐらいのところに地下鉄の駅があり、中心地に行くのが便利な立地だったので、私はそこの一部屋を借りて数年暮らしていた。
そこは上海と言っても大都会の華やかさは全くなく、地味で汚く埃っぽい庶民の町で、四川省や安徽省、東北からの出稼ぎも多かった。
夕方は安徽人が出した臭豆腐の屋台が異臭を放ち、夜は重慶人の串焼き屋台が出て香ばしいニオイと油煙を撒き散らし、上海にしては珍しく犬を食わせる店があり(東北人が多いからだ)、月に1回は路上で酔っ払いが血まみれの大ゲンカをし(訛りから考えて東北人だろう)、週に1回はパジャマ姿の夫婦が路上で近所の人を何十人と集めてトークバトルのような盛大な夫婦喧嘩をやっていた(これは上海人だったw)。
▲夜になると現れる串焼き屋さん。
道端では生きたニワトリを売る露天商がいて、買うとその場で絞め殺してお湯に漬けて羽をむしって客に渡す。どこから持ってきたかわからない大きな魚をアスファルトの上に直置きして売っているが、無数のハエがたかっている。客が魚を買うと、10円玉ぐらいの大きさのウロコをバリバリ落とし、ナタのような大きな包丁でブッた斬って渡す。路上にはいつもニワトリや魚の血がシミのようにこびりついて、羽とウロコが散乱し、内臓の腐臭が漂っているような町だった。
友人は、「日本人にはキツイかも知れないけど、イヤだったら1ヶ月で出ていってもいいからw」と申し訳無さそうに笑っていたが、私はこの町がすぐに気に入った。中国の普通の庶民の生活を見てみたかったからだ。そういう事情で、私は友人の母と一緒にこの町で住み始めた。
一人っ子政策とカミングアウト
3ヶ月ほどたった頃、夕食後に来客があった。
「アナタに用があるそうだよ」
友人の母が言うには、ご近所さんらしい。50半ばほどのオバサンである。小太りで、頭にパーマをかけており、ちょっと派手そうな服を着ている。上海によくいるタイプのオバサンである。
私とは全然、面識のない人だ。
一体、何の用かわからないけど、一応はご近所さんでもあるし、一緒に住んでいる友人の母の手前、無礼がないように…と思って面会に応じた。
▲ここまでは歳を取ってないけど、イメージとしては、左側の麻雀をしているオバサンみたいな人でした。
* * * * *
「娘と結婚してほしいのです」
見知らぬオバサンは、部屋に入るなり、よく通る大きな声で、率直にそう言った。
事情を聞いてみると、私はここに住んでまだ3ヶ月程度で、ご近所に知人はいないのだが、一緒に住んでいる友人の母から噂が伝わって、ここに日本人が住んでいることを知ったらしい。
娘は20代半ばを過ぎてまだ結婚をしていないので、結婚相手を探している。あなたは日本人で、中国語も出来るし、近所に住んでいて、まだ結婚していないらしいから、ちょうど良いと思ったのだ…というのだ。
私は、今もそうだが、当時も結婚を考えていなかったし、正体不明のオバサンから「娘と結婚してくれ」と突然言われても困る。すぐに断ったのだが…
「どうしてダメなんだ?ウチの娘じゃダメなのか?」
「今、カノジョはいるのか?いないならまず友達として付き合えばいいじゃないか」
とオバサンは食い下がる。
不思議なことだが、娘との結婚をススメに来たくせに、写真の1つも持ってこない。まずは会ってみろ、家は近所だ、会えばいいじゃないか…というのである。
「いまカノジョはいませんけど、私は必要ないのです。」
…と言うと、オバサンは、「ハハーン…わかったぞ」という顔をして、
「アナタは男が好きなのか?同性愛なんだろう?」と言われた。
もう面倒くさくなってきたので、
「そうです。他の人には言わないで下さい。私は同性愛者だから、カノジョは要らないのです。」
…とウソをついた。
* * * * *
私は中国にいると、やたらと結婚をススメられる。中国は一人っ子政策の影響で女子は少ないため、結婚相手を探すには苦労しないはずなのだが、そうなると「高望み」することもあり、男の方も結婚して女性が子供を産めない身体だと困るので、若い女性を好む傾向がある。だから、女性は20代後半をすぎると、結婚相手を探すのが難しくなってくる。それで、親はあせるのだ。
私が中国をフラフラと旅していると、やたら親切なオバサンと出くわす。お茶だのお菓子だの、豪華な食事を振る舞ってくれる。そこで、彼女たちの話を聞いていると、娘がいて、20代後半で、または30歳を過ぎていて、真面目な良い子で勉強好きで、立派な大学も出てるけど、仕事ばかりして恋愛をしない。結婚相手がいない。アナタみたいな真面目そうな日本人だったら、中国語もできるし、ちょうどピッタリお似合いで、気が合うと思うのだが…とススメられる。いくら断っても、非常にシツコイ。
そういうことは中国で珍しくないので、その度に「私は同性愛だから…」とウソをついて断っていたのであった。
「手作り餃子を売って大金持ちになりたい」
私のカミングアウトを聞いて、オバサンは少し考え込んだ。
しばらくして、それまでの作り笑顔をやめて真顔になって、
「じゃあ、わかった。私と結婚してくれないか?」
…と切り出してきた。
「え…?すみません、もう一度言っていただけませんか?」
「私は日本に行きたいんだ。私と結婚してくれ。形だけでいいんだ。アナタは同性愛だし、本当の夫婦になるわけじゃない。私は日本に行きたい。だから結婚してほしいんだ」
「どうして日本に行きたいのですか?行ってどうするつもりです?」
「私は商売がしたいんだ。日本人は餃子が好きなんだろう?私のポンヨー(朋友=ともだち)で、日本に行って、手作りの餃子を売って大儲けした人がいるんだ。私は子供の頃から餃子を作ってきたからウデに自信があるし、小さな店をやってたこともあるんだよ。日本に行って餃子を売って大儲けする。だから私と結婚してほしいんだ」
「ええっと…まずですね、日本の餃子は、水餃子じゃなくて焼き餃子でして、中国の餃子とは違うのです…」と言いながら考えていたのだが、これって「偽装結婚」じゃないのか?
* * * * *
当時、中国では日本へ行くための偽装結婚が流行ってた。私も何度か誘われたことがあった。日本人を見かけると、片っ端に声をかけるような人物が中国にも日本にもいたのである。
応じた日本人男には、日本円で100万円ほど支払われる。初期には120万ぐらいの時もあったか。ただ、報酬は年々低下して90万、80万…と下がり、70万円まで下がったのを最後に、偽装結婚の誘いそのものを聞かなくなった。他のビザ取得の方法が見つかったのか(餃子などを作る「点心師」という職能で就労ビザが取れる噂を聞いたことがある)、偽装結婚の取締が厳しくなって、このビジネスが成立しなくなったのだろう。
▲こちらは一緒に住んでいた友人の母に作ってもらったワンタン。上海の人だと、こういうのはササッと作れちゃいますね。お店で食べるよりも、手作りの家庭のワンタンの方が美味しいです(^^)
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「日本と中国で餃子が違うのはわかったけど、どうせ皮の厚さぐらいの違いだろう?私のポンヨーで日本で餃子を売って大儲けしたのがいるんだよ。ちょっと工夫すれば誰よりも上手く作れるようになるよ。そうだ、そのポンヨーにコツを聞けばいいんだよ!大丈夫だよ!やればできるよ!」
ポジティブシンキングすぎるのも考えものである。
確かに、このオバサンは日本でもバカ売れする美味しい餃子が作れるかも知れない…と私も思い始めた。オバサンは、ちょっと変だけど、どんな手を使っても商売をやり遂げようとする根性がある。
でも、どうしてそのために私が偽装結婚をせねばならんのだ。
いや、待て。20代後半の娘はどうなったのだ。
何かがおかしい。そして、私の説得の仕方に問題があるのではないか。
「もう夜も遅いですし、友人の母は高齢ですから、そろそろ寝なくちゃダメなんです」
正面からの論破をあきらめ、お母さんを口実にしてみると…
「それじゃあ、しょうがないわね」
といって、残念そうにしながら、
「また来るから。考えておいてね!(^^)」
と笑顔で去っていった。
オバサンの正体
オバサンが帰った後の部屋は、嵐が通り過ぎたように静まり返った。
友人のお母さんに、「あの人は一体どういう人なんですか?」と聞いてみると、「よく知らない」という答えが返ってきた。
「別に友人じゃないし、付き合いがあるわけでもない…この近所のどこかに住んでるって言ってたね」
「全然、面識がないの?」
「ない。ここに日本人が住んでるだろ?って聞いてきたから、それは本当だし、あの女は近所に住んでいる…アナタに用があると言うから、家に入れてやったんだよ」
…と素っ気ない。お母さんの顔を立てる必要は最初からなかったのだ。
お母さんはお人好しだから、すぐ信じてしまい、オバサンを家に入れただけなのだ。
* * * * *
その後、オバサンは再びやって来ることはなかったが、そもそも近所で見かけることもなかった。
今となっては、本当に近所に住んでいたのかもわからない。
もしかしたら、別の目的があったのかな?とも思うのだが、それもわからない。
ただ、それ以後、いきなり面倒な話を持ちかけてくる中国人に対して、私は用心深くなったのでした。
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▲考えてみると、私って中国ではしょっちゅう結婚をススメられてますね。私としては別にどうでもいいことなんですが、私の親は、私が中国人と結婚するのは反対だったりします。
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