▲中国とは全く関係のない私の趣味の話であるが、幸いなことにツイッターでは多くの意見が寄せられた。
そこで、電工ナイフと海軍ナイフの関係を明確にしようと、色々手をつくしてみたのだが、そのあたりに触れていると思われる『ナイフマガジン115(2005年12月号)』は入手困難で、他の本をあたってみたもののそれらしき有力情報は得られなかった。
ただし、海軍ナイフについて調べてみると、意外なところで中国との関わりがあったので、こちらに記録しておこうと思う。まずは日本海軍における海軍ナイフそのものの経緯から。
日本海軍史 第6巻 | 主題書誌データベース | 国立国会図書館
▲こちらの本の784~785ページ「第14編第四節 明治二十年代の下士卒」の「一 上陸時携帯禁止ー海軍ナイフ」という記載がある。まずはそちらを読んで見る。
海軍ナイフは正しくは「折メス」といい、角製の柄が付き刃先が四角い折り込みナイフである。柄に付けた白木綿紐の一方を輪に結んで水兵襟の下を潜らせて首にかけ、ナイフは襟先から服の内側に落とし込んで携帯したが、明治二十年ごろに折メスを入れるポケットが水兵服の左胸にできた。
この記載には当時の海軍ナイフの図が掲載されているが、それを見ると現在の電工ナイフでは、日立武蔵の「鍛造木柄駒電工ナイフ」が最も近いブレード形状となっている。
▲まるで床屋のカミソリみたいな形状だ。ところがグリップ形状が海軍ナイフとは異なる。
▲グリップ形状が海軍ナイフと似ているのは、SK11の「割込」である。このように、グリップエンドにDカンがついている。
▲こちらの133ページ「明治40年-大正3年 一等水兵 礼服」の記載を見ると更に詳しく書かれていた。
胸に流れる白紐は、左胸のポケットに入れた折メス(刃先が四角く、鹿角製の柄の折り畳み海軍ナイフ)に結んである。折メス紐は水兵さんの凛々しさを演出するアイテムであった。帆船時代と違い、使用頻度が減り、明治40年(1907)には水兵と信号兵だけに渡された。分隊点検の折メス検査は、胸ポケットから折メスを引っぱり出し、刃を開いて見せるのだが、西部劇のガンマンそこのけの早業で、一挙動でポケットのナイフを引き抜き、刃をバット振り出すのだ。これが巧くできないと、仲間うちで一人前の水兵とは認められなかった。
写真だけで見ていると、電工ナイフは小さいように見えるが、結構な長さがあるし、ブレードも厚めで重みがあるので、刃を振り出すことが可能なのだろう。
ここで、日本海軍史第6巻の続きに戻る。
水兵さんは乱暴者、それが当時の世間一般の通念であった。水兵はみな若くて向こう意気が強い。明治二十一年七月、清国呉淞沖の日本軍艦から上陸した乗員が立小便をして拘引されたことからナイフで現地の警官三人に重傷を負わせ、あわや国際問題になるかと心配された。国内でも、ナイフ片手に土地のやくざと渡り合う等のことが度々起こっていたので、二十二年一月、折メス携帯禁止令が出され、下士以下全員に渡っていた折メスは、二十三年から甲板上の作業が多い水兵科員だけに支給された。上陸には白い紐だけを首にかけたが、先にナイフがなくてもその紐は、明治の水兵を凛々しく見せる効果的なアクセサリーであった。
水兵が上陸先で暴れるといえば、清国水兵による暴動である長崎事件(明治19年8月)を思い出すが、その2年後の明治21年7月に、日本は同じようなことを上海でやっていたのである。あらら(笑)。
「呉淞」とは上海の東側、今の浦東の黄浦江を挟んで北側である。呉淞の東側は長江に面し、西側は日本租界と接している。
▲現在の宝山区にあたる。
「清国呉淞沖の日本軍艦から上陸」とあるけれど、なぜ明治21年にそんなところに日本の水兵が上陸したのかと気になる。たぶん、当時既にあった日本租界と関連するのではないかと思うのだが、「呉淞沖」が東側の長江沖だったとして、あんなところから上陸しても日本租界ははるかに遠い。黄浦江に入ってからも「呉淞」には面しているので、そこから日本租界まで歩いて行くのならまだ話はわかるが、黄浦江をして「呉淞沖」というのも、あまりピンとこない話である。
『日本海軍軍装図鑑』の168ページを見ると、
折メスは、大正11年に給与品から貸与品に変更され、昭和6年に被服物品表から削除されて、備品となる。
…とあった。
当時、日本の水兵は、国外にあっても護身用の武器を持たせてもらえず、厳しく管理されていたのだ。兵士なのだから拳銃か刀ぐらいは普通に持っているものかと思ったが、電工ナイフの歴史を調べる内に、意外な発見をすることができた。