昨日ツイートしたニュースの中で、一番気になったのはこれである。
【超重要】神戸大学附属図書館が戦前に中国・上海で発行された日本語雑誌『上海』『上海週報』を公開した(ウェブでデジタル化された画像を閲覧できます) http://bit.ly/6bfOoI
— 黒色中国 (@bci_) 2010, 1月 2
戦前の上海には日本人が多く住んでいた。長崎あたりから船に乗ればすぐに着く近さであるから、昔日本から上海へ手紙を書いた人はあて先を「長崎県上海市…」と書いたとか、そういう話が残っているくらいだった。
以前誰からか戦前の上海にも日本人が発行していた雑誌があったとか新聞があったとかという話を聞いた事があり、出来れば読んでみたいと思っていたところ、このニュースをたまたま見つけたのである。
世の中にはこういうものに興味の無い人が大半である。こういうものを好むのはよほどの趣味か奇人の類と思われることが多い。しかし、検索で飛んできたか、リンクを辿ってきたか、縁あって当方のサイトを知った人はその程度の多寡は別にして、たぶんこれから私が書こうとしていることに興味があるのではないかと思う。しばらく耐えてお付き合いいただきたい。
以前から、第一次・第二次の上海事変に関する、当時の新聞や記録というものを読んで見たかったのである。今まで読んだのとは違うタイプの…噂に聞いていた現地発行の日本語新聞で。
このニュースを見つけて、ウェブサイトを開いた時には、本当にPCの前で飛び上がって雀踊りした。早速探してみたのは1937年8月のデータである。
…しかし、それは無かった。1932年1月のデータも見たかったのだけれど、それもなかった。
■『上海』『上海週報』解題(神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ)
雑誌『上海』は、1913年から1945年まで、上海で発行された日本語雑誌である。1928年から1933年の時期は『上海週報』と誌名が変更され、 1933年5月からは半月刊誌『上海』となった。1945年初頭までの刊行は確認されているが、停刊の時期は不明とされる。1916年での発行部数は 1000部とされる。同年における上海日本人居留民人口は、約11100人、戸数は約2200戸であり、創刊された前後の時期は、日本人居留民人口が 1908年の約7200人から1919年の約17700人へと急成長し、上海日本人居留民社会が確立する時期であったとされる。
1913年から1945年ならば、上海事変の時期も途中に含まれるはずなのだが。
■ 戦前の上海で発行された『上海』『上海週報』を電子化公開(神戸大学附属図書館)
今回公開するのは、神戸大学所蔵分のうち、第1号(1913)から第513号(1922)までです。著作権が存続していたり権利関係が不明な記事はマスキングしておりますので、ご了承下さい。非公開部分のご利用は社会科学系図書館サービス係までお問い合わせ下さい。
うむむむ…1922年までなのだ。残念である…と思ったけれど、それまでの間で気になる事件はなかっただろうか?と少し考えてすぐに思いついた。それが表題の件なのである。
■1913年の南京事件
一般に「南京事件」というと、それは「南京大虐殺」のことである。しかし「南京事件」と呼ばれるのは他にも幾つかあって、1927年にも起っている。1927年出版分のデータは今回の電子化公開には含まれていないのでこれも仕方ないのだけれど、1913年のは公開されている。上海の雑誌だけれど、南京はすぐそばなのだからたぶん何か書いているに違いない。そう思って調べてみると、すぐに見つかった。
↑こちらの4ページ目にある。「●陥落後の南京」というところである。
1913年の南京事件とは何なのか、簡単にまとめると1911年に清朝を打倒(辛亥革命)して孫文が中華民国を建てた後で、色々すったもんだあって、袁世凱を打倒(第二革命)しようと思ったのだけれど、孫文側はこれに失敗してしまう。その後、袁世凱政府の将軍だった張勲というのが南京に入城した際に、虐殺、強姦、略奪が行われて、その際に日本人10数名が犠牲になったのである。
■第二革命(ウィキペディア)
■第二次南京事件(別宮暖朗氏のサイト)
詳しくはこれらのウェブサイトをご参照下さい。
話は戻って、上海週報の記事であるけれど、やっぱり当時の記事だけあって、非常に詳細に書かれていて、読みながらすっかり引き込まれてしまった。上記のページはPDFでも開けるようになっていて、拡大なども出来る。それでもやはり読みにくさはあるし、旧字体で古めかしく読みにくい。そこで、日本人虐殺のところだけを書き起こしてみた。ぜひ読んでいただきたい。
●陥落後の南京
▲奪掠と強姦と虐殺と
▲同胞数名惨禍を蒙る
南京陥れば張勲は、奪掠三日以て三軍将士を稿はんとすとは早く十数日前より傳はり、南軍をして悲憤憤慨せしめ両軍無意義の對抗を徒らに延引せしめたりしが、九月一日正午南京陥落し北軍城内に闖入してより、公許されたる奪掠三日の一言は不幸にして箴を為し、九十里の城垣は故なくして阿鼻叫喚の巷となり放火、奪掠、姦淫、虐殺等、有らゆる罪悪は凡ての北軍に依りて犯されたり各軍の司令官は約束の如く三日の間入城を避け、遠く城外に在りて之を傍観し、野獣の如き士卒をして其欲する所に就かしめたり、鳴呼官軍既に良民を虐ぐ、王道何を以てか立てん、長江巡閲使今何處にか在る、鎮守使の使命を如何、宣撫使の旗幟を如何、
▲同胞の遭難
初め何海鳴の南京に據りて事を舉ぐるや、硬軟両派の暗闘日に激しく連日城内に殺戮行はれ頗る危険なりしより、在留同胞は皆避難の準備を為し攻圍戦の開始と同時に領事館に避難する商民七十餘名婦女子は遠く上海又は日本に送還し戦争の経過を窺ひたり九月一日陥落の報傳はり掠奪を防がんが爲め帰店するものあり、此時北兵已に大街を荒らし発砲しつつ、手当たり次第に掻攫ひ眼中内外の区別なきより、同胞数名は陰かに危険を感じ国旗を押立てて領事館に引揚げんとすれば、奪掠の諸兵当路に擁して誰何し、銃を擬しては所持品を奪はんとするも剩す所の一物なきを奈何せん、維れ命窮れり今は唯我国旗の威光により我は是れ日本人なりとの最後の頼みあるのみ、
然るに野獣の如き北兵は発砲せり雑貨商後藤勇次郎、村尾某の両人は即死を遂げ、館川勝次郎は重傷を負ふて逃れ後死亡せり、其後尚一名銃殺の惨を蒙り行方不明のもの数人を出せり、同胞の生命已に彼等の重ずる所とならず、財貨の奪掠の如きは言ふ迄もなきなり
太田、早川両医院の如き赤十旗と国旗を掲揚せるにも拘らず、掠奪隊の侵入を蒙る事一日二十数回医療機械より家具類に至る迄一として残す所なしと云ふ、
かくて我国旗は未曾有の凌辱を受けたり之を掲ぐるも威なき事一片の白布に等しく、偶其威を感じたるも旗上日章の部分を刳り取り之を泥土に破棄せり
此侮辱此時忍ぶべくんば又何処にか国威あらん帝国政府が北京公使を通じて厳重なる抗議を提起せる事誠に理由ありと云うべし
読みやすさを考慮して、こちらで改行・句点を加えて、一部漢字は今の字体にしてある。
余計とは思いつつも、こちらの解説を加えると、
「南軍」とは孫文側。「北軍」とは袁世凱側である。
「奪掠三日以て三軍将士を稿はん」というのは昔ながらの支那の軍隊の伝統的習慣である。敵をやっつけて都市を占領すると勝った側の兵は三日間盗り放題のやり放題になる。そういうインセンティブを約束して、兵のモチベーションをあげるのである。古来俗に「賊如梳,官如剃」(賊軍は櫛で梳くように奪う、官軍は毛をかみそりで剃るように奪う)という。賊軍には追っ手があるから幾らか盗めば逃げてしまうけれど、官軍は逃げる必要がないのでとことんまで奪いつくしてしまう、という意味である。
「何海鳴」とは人名である。日本人には馴染みが薄いけれど中国には「何」という姓がある。
■何海鳴(百度百科)
1913年,最先获悉袁世凯谋杀宋教仁案情,公布于《民权报》,轰动天下。二次革命时,在南京策动讨袁,占据都督府,自任讨袁总司令,宣布独立,浴血奋战24天,失败后潜居香港。
この人は要約すると文人肌の軍人である。というより文人がたまに軍人をやっているような感じだ。宋教仁が暗殺されたことを知って《民権報》を公布し、天下を轟かせる…とある。第二次革命の時に南京で袁世凱討伐(討袁)を策動し、都督府を占拠して、討袁の総司令官を自ら買って出て独立を宣布するも、激戦24日間で失敗し、香港に逃れた…ということを書いてある。
この何さんが一念発起していろいろやり始めたのだけれど、どうも上手く行ってない。たくさん人が殺されて危なっかしい。こりゃダメだと思って在留邦人が領事館に集まって上海か日本に逃げて戦争のなりゆきを見ていたけれど、9月1日に北軍が勝って戦争が終結したので、それで自分の店を掠奪されては困ると思って帰って来た人たちがいた。帰ってみると既にに北軍の兵は已に街を荒らして発砲し、中国人・外国人問わずに手当たり次第に掠奪をしていたので、危険を感じた日本人は日の丸を押し立てて領事館に戻ろうとしていたところ掠奪の兵に遭い、「お前らは何者や?なんぞ武器でも持ってるんとちゃうか?」といって調べる事を口実に所持品を奪おうとする。怯えつつも日の丸を見せて「私たちは日本人なんですよ」と云ったところ、北軍の兵士は発砲し、2名はその場で即死、1名は重傷を負って逃げるもその後死んでしまい、その後またもう一人が殺され、行方不明がわからなくなったものも何名かいた(たぶんその場で殺されなかったのは女性だったのではないでしょうか)。
太田医院・早川医院という病院があったそうで、その両方とも赤十字の旗と日の丸を揚げていたのだけれど、度重なる掠奪を受けて医療機械から家具にいたるまで何もかも盗られてなくなってしまった。
日の丸は真ん中の赤丸の部分をえぐりとられ、泥の中に捨てられた。
…というわけです。
非常に生々しく当時の惨状が伝わってくる文章ですが、読後すぐに思ったのは「今の中国とあまり変わらない」ということ。これが1913年のこととは思えません。たぶん2013年あたりにも同じようなことをやってくれるのではないか…と思うのです。
この記事はその後「南京三日記」として、その掠奪し放題の三日間のレポートになりますが、たぶんこれを読んで「中国人がそんな残酷なことをするわけがない!」とか、「日本人が書いたものだから故意に中国人を貶めようとしてウソをついているに違いない!」とか「実はそれは日本軍がやったころだろ!」とかいう人が居るかも知れません。結構世の中にはそういう人がおりますからね。でも「南京三日記」の後半部分には「チャイナプレス」からの引用部分があって、たぶんこのチャイナプレスというのは当時の中国の英字新聞かと思うのですが、その引用部分がまたすごい内容になっております。関心のある方はぜひお読み下さい。