黒色中国BLOG

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中国軍が「台湾海峡や尖閣諸島近くの海域」で実弾演習…の詳細な位置を調べてみたら

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最近、中台関係、米中関係が緊迫する中で発表された中国軍の実弾演習。「台湾海峡や尖閣諸島近くの海域」というのが、実際にはどのあたりなのかを調べてみました。

「台湾海峡や尖閣諸島近くの海域」とは言うものの…

▲レコチャイのソースになっているのはこちらかと思われます。

以下、スクリーンショットで見てみますと…

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▲訓練が行われるのは、5月5日午前6時(現地時間)から5月10日午後6時まで。

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地理的には、上海と福州の中間あたりですが、当局発表の航行禁止地域の地図を見る限り、沿岸から大きく離れるものではなさそうです。

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▲尖閣と台湾も含めて見るとこんな感じ。

玉環市から尖閣諸島や台湾は共に直線距離で300km程度。「尖閣諸島近くの海域」といえばそうですが、実弾演習が行われる海域が、玉環市周辺の沿岸から大きく離れることはないようです。

なぜ玉環市周辺海域で実弾演習なのか?

なぜこんなところで実弾演習なんだろうか…と思い、ちょっと調べてみましたが、意外な歴史があることに気づきました。

▲こちらは玉環市にある烈士陵園…国共内戦で亡くなった兵士の墓なのですが、こちらを読むと…

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▲少なくとも361名が葬られており、その大部分は第二次国共内戦期間中に亡くなった中国共産党の軍人と民兵であり、玉環市沿海の島々で亡くなった…とあります。

その中で唯一リンカブルな「披山島」をクリックして見ると

▲この中の説明に

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▲かつては倭寇が出没した地域で、1561年に明軍が倭寇数百人を掃滅した「邳山之役」が行われた場所にあたるそうです。

その後、1941年に日本の軍艦が披山島を襲撃。

1955年2月13日に中国人民解放軍の陸海空軍の共同作戦により解放、1958年に大陸の人民が披山島に居住するようになった…とあります。

1949年の中華人民共和国建国当時、まだ「未解放」の地域というのが大陸に幾つかあったわけですが、この玉環市を含む浙江省の沿岸地域は、1955年まで国民党の勢力が残存しており、掃討作戦をやった後でも3年間は一般人の住める状況ではなかった(国民党軍の再上陸を恐れて軍の管理地域になっていたものと思われ)…という歴史があるのがわかりました。

それにしても、どうしてここは中華人民共和国建国の6年後まで国民党軍が居座ることが出来たのか、そもそも倭寇や日本軍もここを「好んだ」みたいで、よっぽど何か理由があるに違いない…と思い地図をよく見直してみたのですが、

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赤いマークが入っているのが例の披山島。倭寇の根城になっていた場所。玉環市は浙江省の中でも特別飛び出た「半島」になっておりまして、上海以南、香港以北の中国沿岸地域で、ここ以上に出っ張った大きな半島は他にありませんでした。

たぶん、この特別な地理状況から、国民党軍が6年も居座ることが出来たり、倭寇や日本軍がここを狙ったものと思われます。

東海艦隊がおかれている舟山諸島付近で実弾演習をやると、台湾から遠すぎるし、上海の周辺で貨物船もたくさん行き来している。

福建省の沿岸で実弾演習をやると、台湾の真向かいなので、ちょっと露骨すぎる。

そういう状況から考えて、その中間にある「因縁の地」が選ばれたのではないでしょうか。そして歴史的に見ても、これは「台湾へのあてつけ」なのかと思われます。

反対側からこんにちは。日本人参加中国国共内戦

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