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重慶爆撃と私の歴史の見方

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この数日、鳩山由紀夫元首相が重慶爆撃について謝罪したニュースをきっかけに、つぶやいたツイートが予想外にたくさんRTされた。

ほとんど誰も関心がない話と思っていたのだが、皆さん色々と思う所があったようだ。

南京事件であれば、日中共に関心が高いし、双方熱い議論になるわけだが、 重慶爆撃については日中では「温度差」が大きいのではないか…と以前から私は感じていた。

ツイートではそれらの所感を書いたのだが、こちらに収録し、幾つか補足してみたい。

南京事件と重慶爆撃

日本軍による中国での爆撃と言えば、関東軍の錦州爆撃(1931)、第二次上海事変における渡洋爆撃(1937)などもあり、重慶爆撃が初めてのものでもないのだが、重慶爆撃は5年余りの長期間に218回も行われ、被害の規模も大きい。投下された爆弾は21593発、死亡した市民は11889人、負傷者は14100人、3万軒の家屋、30の学校が破壊された…と百度百科では説明されている。

百度百科の『重慶爆撃』の「伤亡情况」(傷亡状況)にそれらの説明があるのだが、その冒頭に

重庆大轰炸被认为是与南京大屠杀同等性质的事件。

重慶大爆撃は南京大虐殺と同等の性質の事件と認められる。

…とある。日本では南京事件についての評価が諸説あり、定まった見解がないし、私も南京事件は「数」について懐疑的に見ている。

▲私の南京事件への懐疑は、鵜の目鷹の目で難癖をつけて「日本無罪」を叫ぶものではなく、中国側の公的な研究者の発言を見ても、「30万」の犠牲者が不確かなものでしかないことに由来する。

ところが、重慶爆撃については、日本側でこれが南京事件と同等の性質を持つ…という認識そのものがない。中国側がそのように認識しているということもほとんど知られていない。

私は、同じ日本人に対して、重慶爆撃について反省を促し、謝罪を要求するような立場の人間ではない。

ただ、中国人と関わる内に、重慶爆撃への認識を巡って、何度か「地雷」を踏んだ覚えはある。

重慶爆撃について、開き直って正当化するのか、中国に土下座して謝罪するのか…それは各人が自分で考えれば良いことだが、それ以前に重慶爆撃そのものと、中国側がどのように認識しているのかが、日本ではほとんど知られていないことを指摘した。しかし、残念ながら一部の人には、私の真意を理解してもらえなかったようだ。

愛の反対は憎しみではなく無関心 

前述の重慶爆撃に関するツイートの反響は大きかったため、後日幾つかの「書き足し」を行った。要するに、私の真意を理解してくれなかった「残念な人」への説明である。

マザー・テレサの言葉に、「愛の反対は憎しみではなく無関心です」というのがあるけれど、私は中国人と過去の戦争について語るたびにそれを強く感じる。

私が中国人に反論し、日本の肩を持つような発言をすれば、それを嫌悪する中国人もいるけれど、大方は、「日本人が日本を擁護するのは当然だ」という反応になっている。または、議論に張り合いが出て来て嬉しそうな中国人もいる…少なくとも私にはそう見える。

というのも、中国人そのものが、そういう身内びいきの人達であり、大半の中国人は、過去の戦争について日本人と議論をしてみたいとは思っても、私に土下座を強要することは考えてもいない。私が謝罪せずとも、先回り気を利かして、「もう過去のことだから…今の日本は中国の友達ですよ」と言ってくれたりする。

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しかし、中国のある町で、日本軍による爆撃があった、毒ガスや細菌兵器による攻撃があった…ということを私が知らない…だけど、その町の出身者と話していて、私がそれらの過去を知らないことが露見すると、中国人は「怒る」というよりも、悔しそうな、寂しそうな顔をする。そういうことが何度かあった。

日本の過去を正当化するのも、謝罪するのも、皆さん自由にすればいいと思うし、中国人にとっても、結局はそのどちらでも構わないのだろうけれど、中国人にとっては「無関心」が最も傷つくのではないか。そして、この「無関心」は、日本人自身にとっても良いものではない…と、私は思う。中国を愛する必要はないけど、過去への無関心は、自国への無関心、自分自身への無関心ではないか。

ただし今の日本では、「過去への関心」が、極めて政治的な形でしか許されないようになっている。親日か反日か、親中か反中か、右か左か…という何はともあれ「立場」ありきの「過去への関心」ばかりが蔓延している。

そういう窮屈な「立場」から離れ、純粋な知的好奇心なり、素朴な歴史的関心、または「中国人はどのように見ているのか?」という相手側からの視点なども織り交ぜて柔軟に歴史を考えれば、対立や増悪とは違う前向きな関係を作れるのではないだろうか。少なくとも私はこの数年、そのように取り組んでいる。

重慶爆撃とは何だったのか―もうひとつの日中戦争

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