日本の報道を読むと、劉氏の墓が民主化運動の「聖地」となるのを恐れて中国共産党が海葬(海上での散骨)を親族に要求している…との内容が見られる
確かにそれは中国共産党にとって回避したいことであろうけど、よくよく考えてみると、かつての国家指導者である劉少奇、周恩来、鄧小平も、死後に海葬されている。
そこで、今回の「海葬」がどのような意義を持つのかを、歴史的に考察してみたい。
【目次】
劉少奇の場合
劉少奇は、毛沢東が大躍進政策で失敗した後に国家主席となった人物で、毛沢東に敵視され、文化大革命で迫害を受け、中共から除名させられ、失脚後に自宅で監禁状態となり、その後に河南省で倉庫部屋に幽閉されている。
1969年10月17日、河南省開封市に移送。寝台にしばりつけられて身動きができぬまま、暖房もないコンクリートむき出しの倉庫部屋に幽閉された。
受け持った地元の医師が求めた高度な治療に対し、上部機関は「ありふれた肺炎治療薬」のみを投与するよう指示した。
限られた治療の中で病状は悪化し、11月12日に没した。白布で全身を包まれた遺体は、開封の火葬場にて「劇症伝染病患者」という扱いで、死の約2日後の深夜に火葬に付された。
遺骨は火葬場の納骨堂に保管され、その保管証には死亡者氏名「劉衛黄」(この名前は劉少奇の幼名だったという)と記されていた。
…なにやら、劉暁波氏と扱いが似ているではないか。
鄧小平の復権後、1980年に除名処分が取り消しとなり、名誉回復され、同年5月に追悼大会が開かれた。
追悼大会後、遺言(1967年4月、夫人の王光美が批判大会に連行される前日に家族に伝えた)に従い、王光美らによって遺骨は中国海軍の艦艇から海に散骨された。
遺言の詳細がどのようなものだったのかは不明。中国語のネット情報を見ると、「要把骨灰撒到祖国的大海里」(骨灰を祖国の大海へ撒いてくれ)とあるだけで、細かい理由の説明はない。ただ口頭で述べたものだろうか。
文化大革命で激しい迫害を受けた劉少奇としては、死後に墓を作れば破壊されると思ったのではないか。
ちなみに、1967年に劉少奇が亡くなり、1980年に散骨されるまでの間、遺骨はどうなっていたのか調べてみると…
河南省委書記であった趙文甫が秘密裏に劉少奇の遺骨を取りに行かせ、自分の執務室の金庫に隠し続けた…とある。
1980年に劉少奇の追悼式を行うために遺骨が必要となり、中共中央組織部の提出した遺骨の北京送付に関する文書に中共中央書記処が批准…とあるので、中共中央は遺骨の存在を知っていた…たぶん劉少奇の遺骨が河南省委書記の金庫に隠されていたのは、そもそも中共中央からの指示があったのではないか。
…ということは、劉少奇の死後、13年間に渡って、遺骨は親族の手元になく、妻の王光美は「再会」してすぐに、遺骨を海葬せねばならなかったようだ。
汪兆銘の場合
ここで少し余談しておきたい。汪兆銘は中華民国の政治家。複雑な生涯を過ごしたので説明が難しいが、簡潔にいえば、孫文の後継者だったはずが、蒋介石の台頭で亡命したり、引退したりで、失脚したりで、最後は日本の支援を受けて南京国民政府の主席代理となるが、かつて銃撃を受けた際の傷が痛み始め、下半身不随に。来日して治療を受けたが、名古屋の病院で亡くなった…という人である。
南京郊外の梅花山に埋葬されたが、墓を暴かれる恐れから、棺はコンクリートで覆いがされた。
終戦後の民国35年(1946年)1月15日、国民党第七四軍は、墓のコンクリートの外壁を爆破、汪の棺を取り出した。
遺体はまもなく火葬場で灰にされた後、野原に捨てられたという。「漢奸」の墓を残すわけにはいかない、との考えからと見られる。
日本と通じた「漢奸」であることから、このような仕打ちを受けたのだろうが、別の面で見れば、孫文の後継者であるはずだった汪兆銘の存在を完全に亡きものとして(既に亡くなっているのだが)、蒋介石の正統性(「正当」じゃなくて「正統」)を確保するために、このような破壊行為が行われたものと思われる。
このように、中国の政治闘争は相手が亡くなっても終わらない。墓を爆破し、遺骨を野原にばら撒き、敵がこの世に存在していた痕跡を完全に消去し、支持者の拠り所を奪い尽くしてしまうのだ。
周恩来の場合
1976年1月8日、周恩来は死去した。彼の死後、文革によって苦しめられていた民衆が周恩来を追悼する行動を起こし、これを当局が鎮圧するという第一次天安門事件が起こった。
また、その遺骸は本人の希望により火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。これらは生前に妻の鄧穎超と互いに約束していたことであった。四人組によって遺骸が辱められることを恐れたためと言う。
周恩来の場合、海葬ではないが空中からの散骨である。
では、一体どこに散布されたのか…。
▲こちらを見ると、周恩来の遺骨は4ヶ所に分けて散布されたとある。以下、要訳してみる。
- 北京上空…首都の人民と心を共にするため。ちなみに日本留学中の1918年の夏に帰国し、北京で父を過ごした思い出があるとも言われる。
- 密雲ダム…中華人民共和国建国以前の北京は水が慢性的に不足する都市であったため、周恩来が陣頭指揮にあたって、20万の人員を投入し、5万人を転居させ、43億立方メートルの貯水を可能とした。
- 天津…1913年に南海中学校に入学し、その後5年間学び、五四運動に参加して投獄されたのも天津。1928年に党の問題解決のため商人に化けて天津入りし、警察に捕まったけれど、天津にいた伯父に頼んで保釈してもらった…というわけで、天津も周恩来にとって思い出深かったらしい。
- 山東省浜州…黄河が海に接するところに遺骨を散布。黄河は中華民族の母なる河であり、ここで撒かれた遺骨は海に流されて台湾海峡へとたどり着く…つまり「祖国統一」祈願の意味もあるらしい。
鄧小平の場合
鄧小平は香港返還を見ることなく、パーキンソン病に肺の感染の併発で呼吸不全に陥り、1997年2月19日21時8分に亡くなった。
唯物主義にのっとった遺言により、角膜などを移植に寄付した。本人は自身の遺体の献体を望んだが、これは鄧楠の希望で実施されなかった。
同年3月2日11時25分、遺灰は親族によって中華人民共和国の領海に撒かれた。
鄧小平がなぜ散骨を望んだのか…それについては特に記録が見つからない。1989年に公職から引退する際に、「死後の葬儀は簡単にするように」と中共中央の同志に言いのこしていたらしい。
ただ、彼自身も度々失脚を繰り返しながらも生き延びて、その間に、文革を体験し、劉少奇の顛末や、周恩来の散骨を見ているので、やはり周恩来と同じような考えを持っていたのではないだろうか。
毛沢東の場合
毛沢東の遺体は防腐処理され、天安門広場に安置されている。しかし、生前に海葬を希望していたというエピソードが残されている。
▲こちらに、
毛泽东早在1956年4月27日中央工作会议会间休息时,在秘书递来的倡议实行火葬的折子上签了字。1958年毛泽东提出自己死后骨灰撒向大海喂鱼,因为他活着时吃了很多鱼。
…とある。1956年4月27日に秘書が持ってきた火葬実行の書類にサインをした(彼自身の火葬らしい)。1958年に、今までたくさん魚を食べてきたから、死んだら遺骨は海に撒いて魚に食わせろ…と語ったらしい。彼らしいエピソードである。
そして、劉暁波氏
【速報】『劉暁波氏死去』 - 黒色中国BLOG https://t.co/RrThQayf0r 今朝、劉暁波氏の告別式と火葬が行われたばかりですが、本日中に大連の海上で散骨が行われたようです。 #LiuXiaobo #刘晓波 #劉暁波 pic.twitter.com/LvFi1FhBjM
— 黒色中国 (@bci_) 2017年7月15日
劉霞さんが遺体の冷凍保存を望んでいるとか、遺骨の海葬を拒否していると伝えられていたが、結局は火葬後すぐに海葬してしまった。
告別式と火葬の開始時間が朝6時半と早かったので、何か訳ありか…とは思っていたものの、たぶん瀋陽で火葬にした後、すぐに大連に運んで海葬にする段取りで、早朝から始めたのではないか。
日本の報道では、劉暁波氏の墓ができれば、そこが民主化運動の「聖地」になるので、海葬を要求しているのだ…と説明されていたが、これまで長々と説明したように、近現代の中国史から考えると、汪兆銘は死後に墓を爆破され、遺体を引きずり出して火葬にした上で遺骨を野原に撒かれた。
その後の劉少奇も、周恩来も、鄧小平も、墓を作らず散骨を望んだわけで、国家指導者であったとしても、中国では安らかな死後は保証されないし、期待できないものなのだ。
もし、劉暁波氏の墓が作られたとしても、それが中国国内でも、海外であったとしても、墓が破壊されたり、遺骨が強奪される可能性はある。墓を作らず遺骨を保管するとなれば、劉少奇のように省委書記の執務室の金庫でもない限り、墓を作らせまいとする人物や勢力に強奪される可能性がある。
出来ることなら、遺骨を持って劉霞さんが亡命し、しばらくして、中共の一党独裁が終わった後に、中国に戻って墓を作れば良いのではないか…と私は思っていたけれど、それがいつのことになるかはわからない。そもそも、彼女が今後どうなるのかもわからない。
そのような状況を考えると、劉霞さんは海葬に同意するしかなかったのではないだろうか。
ただ、逆に中国共産党の立場から、先に述べた海葬の前例を考えると、劉暁波氏の「影響力」を、国家指導者であった劉少奇、周恩来、鄧小平にも並ぶものとして認めているともとれる。中国で他に、政治指導者以外の私人が、公的に海葬される事例を私は知らない。
そこから考えると、「聖地」を作らせまいとする意図ではあったが、結果的に中国共産党は劉暁波氏の政治的地位を、国家指導者並に高めてしまったのではないか…とも思えるのである。