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黒色中国BLOG

中国について学び・考え・行動するのが私のライフワークです

【チャイナウォッチャーとしての開高健】(序)『過去と未来の国々』を解読する

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高校生の時以来、ずっと「中国とは何か?」ということばかり考え続けている。

そのために、留学して中国語を学んだり、中国に住んでみたり、日々、中国に関するニュースや本を読んでいるのだけれど、長年こういうことばかり繰り返しても、未だによくわからないのは、中華人民共和国成立(1949年)から日中国交正常化(1972年)までの中国がどのようであったのか…ということだ。

1949年から1972年の中国がどうであったのか…というのは、当時中国で暮らしていた人、行ったことのある人の多くがまだ存命中である。本を読んで知ったつもりでいたら、当時の中国を体験した人に会った時、自分の知識が生半可なものであったことを思い知らされる。なので、当時を知る人に会うと、根掘り葉掘り、昔話を聞くことにしている。

この時期の中国を、日本で発行されている本で知ろうとすれば、社会的な出来事…大躍進やら文革…などを俯瞰するのがほとんどで、個人の視点で当時の生活や社会の様子を知ることができる記録がほとんどない。

あったとしても、中国人の記録を翻訳を通じて読むぐらいか。そして、この時期を扱った記録は、極端なバイアスがかかったものが少なくない…というのが現状である。

【目次】

空白の23年間

1949年から1972年の23年間を、私は「空白の23年間」と呼んで、この時期の中国を体験した日本人が書いた書籍を集めている。

この23年の間、日本と中国には正式な国交がなかった。当時の中国に行くことができた日本人、住んでいた日本人は非常に少ない。

中国人が中国語で書いた当時の記録はあるものの、私は日本人であるから、日本人の視点で書かれた記録を読んでみたい。翻訳や又聞きを集めたものではなく、見聞した本人が書いたものを読みたい。それは、当時の日本人がどのように中国を見ていたのか…という記録でもある。

国交回復前の日本人による中国の記録は全て嘘なのか?

1949年から1972年の間、中国に行ったり、住むことが出来た日本人は、基本的に「親中派」なのだから、彼等が残した記録は全部、中共礼賛の嘘っぱちで、読む価値がない…という人がいる。つまり、どうせ「礼賛本」で、内容は偏向しているから、読んでも仕方ない…というわけだ。

これは、偏向しているのを前提に読めば済むことなので、私はあまり問題とは思わない。全くのフィクションならいざ知らず、筆者の主観は無視して、客観的事実だけを読めばいい。

長年こういう本を読んでいると、偏向は百も承知だし、偏向を気にする人は、得てしてこういう読書をしない。そしてこの種の人々は、別の偏向をした本を、偏向してないと信じて愛読しているのではないか。

「空白の23年間」に中国を訪れ、記録を残した人は、意図的に偏向した礼賛本を書いたかも知れない。もしくは、当時の日本人の視点では、特に偏向でもなく、中国がそのように見えたのかも知れない。思いがけず本音が漏れてしまった記述があるかも知れないし、現在から見れば「あからさまな嘘」がバレることもあるだろう。

いずれにせよ、「空白の23年間」を日本人の視点で知りたいと思えば、当時の中国を訪れた人の記録を読むしか無い。そこから忘れ去られた事実を拾い出し、偏向を見抜き、現代の中国観との違いを念頭に、「日本人の中国の見方」がどのように変化したのかを考えると、当時の中国がよくわかり、今の中国もよくわかるのではないか…と思うのである。

『過去と未来の国々』

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『過去と未来の国々』という本がある。1961年4月20日に岩波書店から発行された新書で、著者は開高健である。1960年5月30日から7月6日までの間、日本文学代表団の一員として開高健は訪中し、その記録を雑誌『世界』に連載した。それをまとめたのが本書である。

当時、開高健は29歳。

1958年に『裸の王様』で芥川賞を受賞、1959年に『日本三文オペラ』『パニック』を発表し、訪中はその翌年のことになる。

開高健といえば、晩年の丸々と太った姿が印象的だが、この訪中の時はまだ青年期だ。

とはいえ、その文体は晩年ともあまり変わりなく、後年と同じく鋭い観察眼で、当時の中国を見ている。

この手の本を読む時は、やたらと調べごとが必要になる。当時の中国がどうだったのか、日本はどうだったのか、米国はどうだったのか、人物名、会社名、組織名、地名などを一つ一つ調べながら読み進める。そうすると、当時の状況が脳裏にハッキリと浮かび上がるように見えてくる…見える、ような気がする。

いつもなら、こういう読書は、個人的にやってオシマイなのだが、本書は開高健の記録でもある。開高健の愛読者は今も少なくないし、私もその1人だ。

なので、本書の解読の記録は、ブログで他の皆さんとも共有しておいた方が良いのではないか…と考えた。

当時の中国がどういう状況だったのかを知るだけではなく、開高健がどのように中国を見たのかを知る上で手がかりにもなるし、これは当時29歳の日本人青年の目に中国がどのように映ったのか…を知ることができる数少ない記録の1つでもあるからだ

過去と未来の国々  ―中国と東欧― (光文社文庫)

過去と未来の国々 ―中国と東欧― (光文社文庫)

 

▲私は岩波新書版を古書で入手して読みましたが、現在新品として購入可能なのは、こちらになります。

目次:38日間の概略

1960年の開高健訪中の記録は、全91頁で、4つに区分されている。

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今後は、この「区分」ごとに私の読書録を書こうと思う。

本書は、いつもの開高健の文体で書かれており、読み進める内に、これが旅行記なのか、エッセイなのか、小説なのか、わからなくなる時がある。29歳の時でも、彼は晩年と同じ「開高健」なんだなぁ…とわかって、ちょっと嬉しい。

そこで今回は、38日間の旅程がどのようなものだったのかを書き出しておく。

※書中では「章番号」を振られていませんが、便宜上こちらで訪問先と共に書き加えておきます。

第1章 日本⇒香港⇒広州⇒北京

  • 5月30日 23時45分発のインド航空
  • 5月31日 香港の九龍飛行場着、正午に国境着、午後三時に広州着。
  • 6月1日 宿舎のホテル『愛群大廈』(旧日軍憲兵隊総司令部)に宿泊。
  • 6月2日 北京行急行列車に乗車。二晩三日がかりの汽車旅。
  • 6月3日 畑の土が黄色くなり始める。
  • 6月4日 正午過ぎに北京着。新僑飯店投宿。王府井散策。
  • 6月5日 大公報記者より執筆以来あり。二時に作家出版社訪問。四川飯店で食事。
  • 6月6日 国務院訪問、陳毅副総理面会。

第2章 北京

  • 6月7日 人民日報より安保反対の人民集会の記事を紹介。
  • 6月8日 北京の描写、王府井の東安市場の宝石店、茶廊、政治協商会議礼堂訪問。
  • 6月9日 歴史博物館と人民大会堂。夜は郭沫若と食事。
  • 6月10日 北京郊外の石景山人民公社を見学。松岡洋子泣き出す。
  • 6月11日 現代中国の知識は米国人を通じて知る…との小文。
  • 6月12日 明十三陵、長城を訪問。
  • 6月13日 石景山の製鋼工場を見学するも記録なし。人民日報で日本のデモのことを読み、その所感について述べる。
  • 6月14日 北京大学学長室で北京の各大学の教授諸氏と交歓会。
  • 6月15日 作家出版社訪問。簫三氏と面会。

第3章 北京

  • 6月16日 竹内実、大江健三郎と共に作家出版社へ。
  • 6月17日 北京大学日本語教研室訪問。北京放送局で日本向放送に出演。
  • 6月18日 現代日本画展。前田青邨、河北倫明、吉岡堅造、北川桃雄が参加。陳毅氏も参加。

第4章 北京⇒上海⇒蘇州⇒上海⇒北京⇒広州⇒深セン⇒日本

  • 6月19日 朝早く北京を飛行機で発って正午過ぎ上海着。和平飯店に宿泊。
  • 6月20日 上海博物館訪問。夜はホテルでレセプションの晩餐会。
  • 6月21日 午前中はディーゼルエンジンの工場を訪問。午後は虹口地区にある魯迅の住居と魯迅記念館を訪問。夕食後、自動車で移動。毛沢東、周恩来と会見。
  • 6月22日 友誼電影院で歓迎演説会。夕刻、劇場で越劇の『紅楼夢』を見る。
  • 6月23日 午前中は民族資本家グループと会談、午後は馬僑地区人民公社を訪問。夕方に街を散歩、南京路、新華書店、文房具の栄宝斎、裏町の屋台の古物屋市場をのぞく。バンドの公園を歩く。夜はホテルで映画『青春之歌』を見る。
  • 6月24日 午前中は『海燕』映画撮影所に行く。映画『聶耳』を観る。午後は作家協会に巴金を訪ねる。
  • 6月25日 汽車で蘇州へ行く。
  • 6月26日 夜7時、上海ー北京特急に乗る。
  • 6月27日 深夜12時半に北京駅着。
  • 6月28日 北京の革命軍事博物館を訪問。夜は劇場で紅軍の文芸工作団話劇団の兵士たちが演ずる新劇『三八線上』を見る。
  • 6月29日 万寿山と昆明湖、天壇を見る。
  • 6月30日 北京。帰国日程を決定。小会議の後、自由行動。
  • 7月1日 午前は政治協商会議礼堂で清華大学長の蒋南翔氏と会う。午後は散歩。夜は人民大会堂の『新疆の間』で歓送宴。簫三氏と飲む。西園寺家に行き、毛鉤のコレクションを見て喧嘩(大江健三郎の嘘?)。
  • 7月2日 民族文化宮の見学。
  • 7月3日 北京発、広州着(※飛行機と思われ)
  • 7月4日 広州民間工芸館を見学。小港人民公社を見学。夜は作家協会と対外人民文化協会の歓送宴。
  • 7月5日 深センの国境の鉄橋で李英儒と泣いて別れ。
  • 7月6日 羽田着。

参考資料編

本書を解読する上で、私がネット上で参考にした情報をこちらにまとめておきます。

日本文学代表団とは?

正式名称は「第三次日本文学代表団」。団長は野間宏、副団長は亀井勝一郎が務めた。

参加者は下記の通り。()内は訪中時の年齢。氏名はウィキペディアにリンクしていますが、白土吾夫のみコトバンクにリンク。

  1. 野間宏   1915年生(45)小説家、評論家、詩人。
  2. 亀井勝一郎 1907年生(53)文芸評論家。
  3. 竹内実   1923年生(36)中国文学、現代中国社会の研究者
  4. 大江健三郎 1935年生(25)小説家。
  5. 開高健   1930年生(29)小説家。
  6. 松岡洋子  1916年生(44)評論家、翻訳家。
  7. 白土吾夫  1927年生(33)小学館の編集者時代の昭和31年,日中文化交流協会の設立に参加,35年事務局長となる。

▲ちなみに、こちらを読むと1960年には各分野の「代表団」が多数組織され、訪中していたのがわかります。

『写真中国の顔ー文学者の見た新しい国』

写真中国の顔―文学者の見た新しい国 (1960年) (現代教養文庫)

写真中国の顔―文学者の見た新しい国 (1960年) (現代教養文庫)

 

▲日本文学代表団としての訪中記録はこちらにまとめられています。

▲こちらに、同書の詳細な目次があります。

▲こちらは同書の国会図書館での情報。

開高健

地球はグラスのふちを回る (新潮文庫)

地球はグラスのふちを回る (新潮文庫)

 

▲開高健のエッセイ集。この冒頭の「地球はグラスのふちを回る」という酒に関する作品に、「中国の“洋酒”」という話があり、そこに日本文学代表団で訪中した際のエピソードが含まれています。

内容は、開高健が上海滞在時に南京路か四馬路(現在の福州路)を散歩していたら、酒屋のショーウィンドウに「五つ星」のブランデーをみつけ、高級品と思って買い求め、ホテルに戻って大江健三郎と一緒に飲んでみると…というもの。

https://www.jpf.go.jp/j/project/culture/archive/kaiko/img/17/brochure.pdf

▲こちらは国際交流基金のPDFですが、この中に

中国は、開高健が1960年に日本文学代表団の一員として初めて訪れた異国の地であり、その生涯における43カ国、20回以上にわたる海外への旅の起点でもありました。

…との記述あり。開高健はしょっちゅう海外に行ってる印象が強いので、1960年の前にもどこかに行ってたんじゃないかと勝手に思い込んでいましたが、彼の年表を見ても、それ以前だとまだ日本人の海外渡航は難しい状況なので、この訪中団参加が初めての海外だったのかも知れません。

亀井勝一郎

▲こちらに訪中時、亀井勝一郎が陳毅副首相から伝えられた「言葉」が掲載されていました。

著名な評論家の亀井勝一郎氏が1960年5月、日本文学代表団の副団長として訪中し、中国政府高官に会見した時、戦前の日中関係について、当時の陳毅副首相兼外相から次の様な発言があった。「日本軍国主義の弾圧を受け投獄された亀井先生が、日本軍国主義が中国を侵略したことを永久に忘れないとおっしゃる。私たちは忘れたいと考えている。これは良いことです。逆に私達が忘れないと言い、日本側が忘れたいと言うことになれば、これは悲劇です」。半世紀の歳月がたった今でも先人の言葉は心に響く。

大江健三郎

▲中国人の日本文学研究家による論考。日本文学代表団の訪中を大江健三郎の視点で考察しています。

筆者の王新新氏は

再啓蒙から文化批評へ―大江健三郎の1957~1967

再啓蒙から文化批評へ―大江健三郎の1957~1967

 

▲こちらの著者と同一人物と思われ。プロフを以下に転載しておきます。

王新新 : 1966年中国長春市生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学、中国東北師範大学外国語学院博士号取得(文学)。中国吉林大学助教授を経て、東北大学助教授(4月から中国南開大学へ赴任)

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