黒色中国BLOG

中国について学び・考え・行動するのが私のライフワークです

中国式監視社会の思い出

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中国がハイテクを駆使して人々を常時監視している…という話が最近良く話題にのぼる。街中に無数に設置された監視カメラ、生体認証技術、携帯電話の位置情報、ネット情報の監視など。

これらは大なり小なり、中国以外の国でも採用されている技術であったりするし、日本国内でも監視カメラを増やして安全を確保しよう…という動きはある。それに伴って、プライバシーの保護を優先すべきか、公共の安全を重視すべきか…みたいな議論がツイッターでも頻繁に繰り返されている。

しかし、中国社会における「監視」は最近始まったことではない。ハイテクが導入される以前から「監視」は存在した。

そこで今回は、私が中国留学していた頃に体験した話を紹介しておこうと思う。

【目次】

留学生宿舎の「スピーカー」

昔、北京の大学に留学していた頃、留学生宿舎に住んでいたのだけど、各部屋のドアを開けてすぐ近くの壁面に大きなスピーカーが埋め込まれるようなカタチで取り付けられていた。

ただし、スピーカーは壁面から外されて、奥から配線を引きずりだして、切断されていた。

何年も前から留学している友人に聞いてみると、あれは館内放送(たぶん緊急時の避難連絡?)に使われるのだけど、たとえば来客などがあった場合に…1階の管理人室からスピーカーを通じて教えてくれるのだ…との説明があった。

「便利じゃないか」

…と私は思ったけど、なぜスピーカーは取り外され、配線が切断されているのか。

「あれはスピーカーだけじゃなくて、こちらから管理人室に向かって話すことも出来るんだよ」

…と友人は不機嫌そうに答えた。

つまり、マイクもついているのだ。

いつ頃からかはわからないが、その「マイク」を通じて留学生の部屋の中の会話を盗聴している…という噂が広まり、それを防ぐために、ほとんどの留学生が自室のスピーカーを引きずり出して奥の配線を切断した…というのだ。

実際、他の学生の部屋に行っても、同様にスピーカーは引きずり出され、配線は切断されていた。

中国は社会主義の国で、監視社会だとは聞いていたけど、外国人…しかも留学生が…このように日常的に盗聴されるものだとは想像していなかっただけにショックだった。

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家の中で筆談

留学していた頃、仲良くなった老師の家を訪問したことがあった。学校の教職員が集まって住む集合住宅である。

夕食に招かれていたのだが、料理の準備から一緒に手伝うため(私が火鍋好きなので、手作りの火鍋をご馳走してくれたのだ)、昼過ぎから家にお邪魔していたのだ。

冬の寒い日だったので、老師の家に着いてから、熱いジャスミン茶を飲んで身体を暖めながら、しばらく話をしていた。

色々と話し込む内に、文化大革命の話になり、「あの時代には老師も大変だったのですか?」と聞くと、少し表情を曇らせた。聞くべきじゃなかったかな…と後悔したが、老師は少しづつ身の上話を教えてくれた。

老師の親は解放前(1949年以前…中華人民共和国の建国以前)から工場を経営していたため、文化大革命の時は「資本家」として両親は紅衛兵から攻撃を受けて大変だった…というのだ。

ただ、この話の内容の大半は筆談であった。

私からの質問は全て口頭で伝えたけれど、老師からの回答はほとんどが筆談だったのだ。

かなり長い話だった。今まで溜め込んでいた思いを全て吐き出すような内容だった。悲惨な目に遭った老師への同情もあったけど、初めて直接聞く文革の経験者の体験談だったので、大いに好奇心を刺激された。

話が終わってから、内容を忘れないためと、当時まだ知らなかった単語もたくさん出てきたので、筆談に使ったメモを持ち帰っても良いですか?と聞いたら、老師は首を横に振りながらメモを全て細かく細かく…紙吹雪を作るようにして…細かくちぎって、それを大きな灰皿に入れると、火をつけて燃やし始めた。

部屋の中で、大きめの炎があがり、少し怖かったが、それはすぐに燃え尽きた。しばらく、部屋の中は焦げ臭く煙たくなった。老師と私は一緒にそれが完全な灰になるのを見届けた…何かの儀式をしているような厳かさを感じた。

更に老師は灰をひっくり返して燃え残りがないか確認するかのようにかき混ぜて、全てが灰になったのを確認すると、いつもの笑顔を取り戻して、「さぁ、火鍋の用意をしましょう」と言った。

私はその「徹底ぶり」に不安を感じたので、「なぜなのですか?」と聞いてみたら、老師は小声で「見られているから」とささやいた。

「誰が見ているのですか?」

「ずっと見られているのですよ」

「いつからですか?」

「あなたがここに来ているのを見られている」

「誰が見ているのですか?」

「近所の人も見ているし…見ている人がいるのですよ」

老師は笑いながら、さぁ火鍋の用意をしましょう…材料は既に揃えてありますよ…と言いながら私を厨房へと案内し、それで私の質問は立ち消えになった。

* * * * * 

夕食後、学生宿舎に帰る道すがら、老師の話をもう一度頭の中で整理していた。

当時の私は、純粋で世間知らずな学生だったので、「老師は文革で大変な目に遭ったので、それで神経質になりすぎているのではないか」…と考えた。

ただ、留学生宿舎の部屋の壁のスピーカーのこともあるので、「もしかして老師の部屋にも『スピーカー』はあるのかな?」と思いついた。

そうすると、老師が文革の話になってから、筆談に切り替えて、自分の口からは敏感な話を一切しなかったことの意味が、全て紐解けたような気がして、うす気味悪くなった。

そんなことがあるわけがない…私自身、ちょっと考えすぎなのかも知れない…と思い直しながら、帰り道を急いだのであった。

その後、日本にて

上記のような中国での経験を、私自身何度も今まで振り返って考えることが少なくなかった。だから私は「監視社会」というものについて、あまり良い印象を持っていない。

中国留学からの帰国後、日本国内でも監視カメラが普及し始めた時に、日本の友人と議論したことがある。

友人は、「監視カメラは治安維持のために使われるのだからいいじゃないか。やましいことをしてなければ別に大丈夫だろ」というのである。

私は、「監視カメラが治安維持のためだけに使われるという保証はどこにもない。治安維持のために個人のプライバシーの侵害を許容するような社会になると、『治安維持』の名目で監視がエスカレートする」と反論した。

こうやって文字にしてみると、反国家主義の、個人の自由が絶対に尊重されるべきだ!という如何にも出羽守というのか、西洋カブレの意識高い系みたいな話ではないか。

ただ、私は西洋に行ったことはなく、中国での留学中の経験から、全く個人のプライバシーが守られない社会というのを経験しているため、「治安維持のためなんだから」「やましいことをしてなければ別にいいじゃないか」という論調には、安易に同調できない。

自分の家の中でも筆談しなくちゃいけないような社会が日本のすぐ近くにもあるし、日本が絶対にそうならないという保証も全くないのである。

追記:無料公開されている『一九八四年』の邦訳

お陰様でこちらの記事は、はてなブックマークのホットエントリーにもなり、多くの人に読んでいただけました。皆さんありがとうございましたm(__)m

ところで…寄せられたブコメで小説『一九八四』に関するものが多かったのですが、私はあの小説を読んだことがありませんでした。折角だから、この機会に読んでみよう!と思ったら…

▲詳しくはこちらに書きましたけど、現在『一九八四年』の邦訳は無料で公開されております(青空文庫ではありません)

私と同様にまだ読んだことがない…という方がいらっしゃいましたら、ぜひこちらの記事も御覧ください(^^)