毛沢東がかつて北京大学図書館の司書をしていたというのは、この手のことに詳しい者の間では有名な話であるけれど、あまり詳しくその概要を調べる機会がなかった。
彼がずっと図書館司書をしていたら、その後の中華人民共和国はなかった可能性が高いと思うものの、なぜ彼が北京大学の図書館司書になり、短期間で司書を辞めたのか…というのは以前から疑問であった。
丁度、今日はツイッターでフォロワーの方から、この件について質問があったので調べて回答したばかりである。こちらの方にもその経緯をまとめておこうと思う。
▲こちらを参考にした。「毛沢東が回想する北京大学図書館の頃…職位が低かったので、みんな相手にしてくれなかった」という寂しいタイトルであるw。内容を見ると、
毛泽东是通过杨昌济推荐给北大校长蔡元培
毛沢東が北京へやって来た時に、恩師である楊昌済が、北京大学の教授を務めていた。そこで楊昌済の推薦を得て北京大学の学長である蔡元培と会い、北京大学図書館司書補の職を得たらしい。つまり恩師の紹介で縁故就職したのであった。
以下、時系列でまとめると
- 【1911年】 毛沢東、辛亥革命後に半年間兵士になる
- 【1914年~1918年】 毛沢東、湖南省第一師範学校で学ぶ
- 【1913年~1917年】 日本と英国で学んでいた楊昌済は帰国して湖南省第一師範学校で教師となる。この時代に毛沢東を教えていたらしい。
- 【1917年5月】 楊昌済は北京大学の教授に就任。百度百科で楊昌済は1918年後に北京大学教授になったとあるが、上掲の回想の方が詳しい月日まで触れている。本題とはあまり関係ないので、ここは深く追求しない。
- 【1918年8月19日】 毛沢東、北京に到着
- 【1918年10月】 毛沢東、北京大学図書館司書補になる
- 【1919年3月】 毛沢東、母の病気が重くなったため離職、上海を経由して故郷の湖南へ戻り、中学校の歴史教師になる。
- 【1920年】毛沢東、長沙師範学校付属小学校長に就任。
毛沢東がこの時北京にいたのは7ヶ月あまり。北京大学図書館で勤務していたのは5ヶ月であるが、この期間中に楊昌済の娘である楊開慧と出会っており、1920年に父が病没した直後、楊開慧は長沙に戻り毛沢東と再会し、結婚している。
▲楊開慧
ヨメが北京大学の教授の娘で、毛沢東自身も小学校の校長先生だったりするので、そのままいけば、毛沢東は教育者として人生を終えたのかも知れない。ただし、歴史の荒波は彼をそのままにはしておかなかった。彼自身、じっとしていられるような人間ではなかった…ということなのだろう。