黒色中国BLOG

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【中国・上海】失われた外国人墓地を求めて(BUBBLING WELL CEMETERY)

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古地図の一片に見えた疑問をたどると、中国の近現代史が見えてきた

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地図を読むのが好きである。特に、古い地図は面白い。1932年に作られた上海の地図なんかは、上海は今も存在する実在の都市であったとしても、地図に書かれている情報が今とは全く違う。都市の変化というよりも、同じ土地の上に別の世界が存在していたのだと思う。

上海で自分がいつも歩く道を、古い地図の上で指でなぞりながら確認していると、たまに、「おや?」と思うことがある。現在の南京東路から西へ向かってまっすぐ歩き、人民公園と国際飯店の間を通って上海美術館の角に出る。古い地図で確認すると、「南京路」は西も東もなく、現在の「南京西路」は、静安寺路(BUBBLING WELL ROAD)となっている。このまままっすぐ進むと、静安寺が見える。今なら、その隣りにあるのは「久光」という日本式の百貨店だ。

久光百貨】(きゅうこうひゃっか)はそごう破綻時に香港のそごうの事業を引き継いだ香港崇光(利福国際グループ、Lifestyle International Group に所属)と上海の九百グループ(九百集団)の合弁会社…中国の日本人は単に「ひさみつ」と呼んでいる。

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「静安寺」はあった。現在の久光がある場所は、「愚園」となっている。その向かいを見ると「外國人」と書いている。下の英語は「BUBBLING WILL CEMETERY」…墓地のようだ。地図上で確認すると、静安寺路の英語名は「BUBBLING WELL ROAD」で間違いない。しかし、こちらの墓地は「WILL」になっている。

「WELL」なのか、「WILL」なのか…どっちが正しいのか?と少し悩むが、もう一つおかしなことに気づく。久光の前に墓地なんかあったっけ?

▲こちらが現在の久光の向かいだ。墓地らしいものは何も見えない。上海にいる時は、普段からこのあたりをよくウロチョロしているが、ここに墓地があったことには気づかなかった。

この動画を撮影した時に、隅々探してみたけれど、墓地の痕跡と思われるものを見つけることはできなかった。つまり、キレイサッパリと無くなったのだ。

この手の外国人墓地というのは日本でもある。幕末・明治頃にあった外国人居留地の墓地が、居留地がなくなったりして、全く別の場所へ移転したりするのだが、上海の場合は、一体どこへ移転してしまったのだろうか…というのが以前からの疑問であった。そこで、ちょっと調べてみることにした。

1)静安寺路外国公墓

まず、この墓地の名称は、英語名の「BUBBLING WILL CEMETERY」しかわからない。しかし先述の「WILL」か「WELL」かの問題があるので、これを確定する必要がある。

ウィキペディアで「Nanjing Road」を引いてみると、「renamed the former Bubbling Well Road “West Nanjing Road”」とある。「WELL」が正しいようだ。

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http://bit.ly/10FFkO9
▲こちらが、往時の「BUBBLING WELL ROAD」だ。今の南京西路はかなり発展しているけれど、昔はこんなに落ち着いた場所だったのだ。

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▲かつての墓地の写真も見つけることができた。そばに教会もあったようだ。墓石が少ないように見えるが、他の空いている土地は、芝生らしきものが敷き詰められていて、その間に幾つかの小道が見えるから、これは墓地として区画整理された直後の写真なのかも知れない。

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▲こちらも同じくBUBBLING WELL CEMETARYの写真。中央の墓石を拡大して読むと、一番上の名前は「GOTTLOB WALSSER」と読める。ドイツ人か。頭の「FA…」は上手く読み取れないが、たぶんこれは「FAMILIE」(ドイツ語で家族)つまり、「GOTTLOB WALSSER家の墓」ということではないかと思われる。生没年は3つしか書かれていないので、3名が合葬されているのであろう。上から、Elsa(1895-1917)、Fなんとか(1870ー1917)、Eligen(1890-1917)と読める。最後のエリゲンさんの没年の末尾の文字はちょっと読みにくいのだが、たぶん1917か。3名とも若いが、揃って1917年に無くなられたのだとすれば、疫病か事故でもあったのだろうか。

http://www.virtualshanghai.net/Data/Buildings?ID=1096

これらの写真が掲載されているウェブサイトから、墓地に関する詳細が判明した。

Building ID 1096
Name Bubbling Well Road Cemetery
Chinese 靜安寺路外國公墓
Address 1649 BUBBLING WELL ROAD
Date Construction 1898
Main Type Site of memory
Sub Type Cemetery
X 351606.9944
Y 3455478.3074

中国語名は「静安寺路外国公墓」だったのだ。正確な住所もわかった。

2)社会主義改造による移転

静安公园(百度百科)

上海静安公园位于南京西路1649号,静安古寺对面,园呈凸字形,南临延安中路,西靠华山路,东为住宅。全园面积3.94万平方米,年游人量200万人次。1898年,公共租界工部局在此辟建静安寺路公墓,俗称“外国坟山”,1953年改建成公园。1999年9月25日改建竣工后实行免费对外开放

静安寺路外国公墓は、1898年に公共租界工部局が、この地に作ったもので、1953年に公園へ変えらたらしい。1949年の中華人民共和国成立から1950年代半ば頃まで、各地で「社会主義改造」というのが行われていたのだが、その時に公園へ変えられたのだろう。私は現在半地下式のショッピングセンターになっているところまでは見ていたが、その裏にある静安寺公園はみていなかった。

社会主義改造】現代中国において,1953年提起された過渡期の総路線の課題の一つ。プロレタリア独裁下で生産手段の私有制を社会主義的な公有制に変革することをいう。

 では、その公園に何らかの痕跡があるのだろうか。

原静安寺外国公墓的遗物

上海以前有不少埋葬外国人的墓地,其中“八仙桥外国坟山”、“静安寺外国坟山”几乎家喻户晓。但到了我小的时候(五十年代),这些外国坟山都被取消了,墓地中墓葬、棺椁据说一部分迁移到大场那里(是否确实?)一部分作了深埋。地面上的墓碑、石刻也都处理了,原来的上述墓园改造成了人们休息、游玩的“淮海公园”、“静安公园”了。
但是在静安公园里,有一座像古希腊神殿似的建筑物,(现在公园后面的草坪旁,保存完好)这其实是当年静安寺外国坟山的唯一遗物,这座用白色石头雕刻的、有着十二根希腊爱奥尼克柱子的庭院装饰性建筑精美典雅,现在一直被当作亭

 こちらの書き込みによると、墓の一部は「大場」に移されたらしい。「大場」とは上海の北部にある大場鎮のことであろう。また一部は深く埋められた。地面にあった墓碑石刻は全て片付けられた。しかし、古代ギリシャの神殿に似た建築物があり、これは今に残る静安寺外国公墓の唯一の遺物である。これらは彫刻された白い石であり、12本のイオニア式エンタシス(柱)で作られた装飾性のある建築であり、現在は亭(あずまや)となっている。

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▲上記ページに写真も掲載されていた。これが「BUBBLING WELL CEMETERY」の唯一の遺物らしい。

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▲柱の数を勘定してみたが、ちゃんと12本あった。

昔はほとんどが土葬だったろうから、それらの遺体はこの公園の土深い場所に埋められたままになっており(今でも掘れば骨が出てくるのだろうか?)、その一部は大場鎮へ移転しているわけだ。では、大場鎮に移転した墓地を探した人はいないのか?…と思い、ググってみると、次のようなページを見つけることができた。

3)大躍進政策、そして文化大革命による破壊

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▲かつて大場公墓には4つの門があったが、今はその内の1つだけが残っている。

大场公墓遗址

大场公墓遗址位于上海市宝山区大场镇南大路18弄1~2号南对面,沪宁铁路南何支线铁轨北侧。

 住所も書いてあるので、早速地図上で確認してみよう。

▲この地図の右上の方に縦長の緑色の部分が見えると思うが、これはかつて日本軍が作った飛行場である。大場鎮は、第二次上海事変の最後の決戦が行われた場所であり、日本人にとっても因縁深い場所である。

第二次上海事変 – 戦闘の経過

上記の写真が掲載されている中国語のウェブページには、「靜安寺路外国公墓」との直接的なつながりを示す文章はない。他をあたってみる。

大场公墓与圆瑛法师纪念塔

▲こちらは円瑛法師という仏僧の祈念塔についてのブログ記事であるが、静安寺路外国公墓から移された墓の一部があったとされる大場公墓のことについても触れている。一部の関連部分を訳してみる。

1953年3月,静安寺公墓迁葬于大场公墓;1954年,在大场公墓内设革命军人区。宗教性的公墓,1965年由政府接办。为了便于管理,1957年将全市市立公墓连同所接办的私营公墓按地区成立了联义、龙华、吉安、万安(后易名为大场)四个中心公墓。1965年,又将四个中心公墓合并成两个,大场中心公墓并入联义中心公墓,吉安中心公墓并入龙华中心公墓

1958年“大跃进”,各殡葬单位大炼钢铁、养猪种粮,提出“变公墓为果园,变无用为有用”,种植果树和经济林木;1959年,公墓展开落葬和养猪工具的改革。60年代初,提倡火葬和棺柩外运,公墓缩小墓穴尺寸。

1966年8月,受“文化大革命”影响,公墓作为“四旧”(旧思想、旧文化、旧风俗、旧习惯),红卫兵砸碑破墓,公墓内一片狼藉。12月初,江浙一带农民乘乱到上海,连续1个月挖掘翻捣,上海公墓坟墓几乎全部平毁,年底,全市所有公墓消失。被平毁的坟墓计约40多万冢。次年7月,上海市革命委员会和中国人民解放军上海警备区决定,公墓实行军管。

当时,全市公墓除龙华公墓正在筹建火葬场和烈士陵园,其他公墓由有关部门筹建工厂、仓库、医院、部队营地等。“文化大革命”结束后,万国公墓首先得到修复,安葬国家名誉主席宋庆龄父母的宋氏墓地整修一新;郊区部分公墓恢复骨灰盒殡葬业务,其余公墓由于历史等原因没有恢复。原大场公墓土地继续由部队、仓库和工厂等使用。

  • 1953年3月:静安寺路外国公墓が大場鎮へ移される。
  • 1958年大躍進政策が始まる。 葬儀屋は鉄を作り(大躍進では「英国を15年で追い越す」といって、とにかく鉄を作らされたのである。)、豚を育て、作物を植えた。「墓を果実園に、無用を有用に変えよ」ということで、果物の木や、換金性のある木が植えられた。
  • 1966年8月:文革により、紅衛兵が墓を破壊した。
  • 1966年12月初旬:混乱に乗じて、江蘇省・浙江省から農民が上海にやってきて、 1ヶ月にわたって墓を掘り返し、ほとんど全ての上海の墓を破壊した。年末には上海市内の全ての公墓は消失した。破壊された墓は約40万基にのぼり、翌年7月には公墓は軍が管理することになった。
  • 文革収束後、上海市内の墓は回復されたが、郊外にあった墓は歴史的な原因などで回復されておらず、大場公墓はいまも軍により、倉庫や工場などとして使用されている。

上海の北部に住む人達は、「解放後」に新しくやってきた人たちで、老上海人からは嫌われている…という話を聞いたことがあるけれど、たぶんこの記載のように、文革の混乱期にやってきて、墓を暴いては副葬品やら、墓石などを強奪し、それぐらいの悪さをやるからには、他にも何かやらかしたのかも知れない。だから嫌われているのだろうか。そして、その一部の人々がこの近くに住むようになったのかも知れない。実際私はこの近辺を訪れたことあるけれど、解放後によそから来た…という人が多かった。

それにしても、墓石は建築材などとして売れるだろうから、持ち去ったとしても、遺体はどうなったのだろうか。副葬品を奪った後で、埋め戻されたのか、そのまま地表に放置されたのか。

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中央右寄りに見えるのが、先述の円瑛法師の祈念塔である。たぶんこの土地も大場公墓の一部と思われるわけだが、この下にまだ遺体が残っていたりするのだろうか。

静安寺外国公墓から運ばれてきた外国人の墓は、文革期に農民によって持ち去られる時は、ほとんどが人力で運ばれたのではないだろうか。もしくは馬やロバで運んだに違いない。だから、あんまり大きい墓石は運ぶのに苦労しただろうし、全てを持ち去ったとしても、それほど遠くには運んでいなかったのではないかと思うのである。大場鎮からそれほど遠くない、どこかの家の建材に使われたに違いないと思うのだ。

4)回民公墓

そんなことを考えながらググっていると、それらしき写真をみつけることができた。

Shanghai’s Lost Foreigner Cemeteries

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▲ヘブライ語の墓石だ。

上掲のサイトは英語である。だから私にはあまり意味がわからないのだけれど、どうやら西洋人にも私と同じように、上海の昔の外国人墓地がその後どうなったのか…ということが気になる人がいて、その人の調査によると、ユダヤ人の研究家が、上海郊外のある村の、イスラム教徒墓地にヘブライ語が書かれた墓石を見つけた…ということらしい。

Although I had initially assumed they were all destroyed during the Cultural Revolution, it now seems that from 1953 to 1959 almost all the foreigners tombs in the city center were moved to a site out in Xujing Town now occupied by a Muslim Cemetery (Huimin Gongmu) established in 1979, and a neighboring modern cemetery next door. It was only in 1966 that the Xujing foreigners’ cemetery was destroyed, the tombstones being carried off by local villagers to use as construction materials in the surrounding villages where they can still be found dotting the landscape today.

 グーグル翻訳の助けを得ながら読んでみると、この筆者は文革時に外国人墓は全て破壊されたと思っていたのだけれど、その一部は、1953年から1959年にかけて、上海市青浦区徐泾鎮の回民公墓に移されていた…とのこと。ただし、1966年に文革で外国人の墓は破壊され、墓石は持ち去られて建材に使われたようだ。

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私の英語力は弱いので、この墓石が回民公募に残されている一部か、その近辺で建材として使われているものなのかはよくわからないのだけれど、とにかく今もこういう状態で、上海の郊外に残っているそうだ。

▲位置を確認してみたところ場所はここらしい。こちらに公式サイトがある。
ここまで、読んで戴いた我慢強い皆さんに、どうして私がこんなことを熱心に調べているのかを打ち明けようと思う。

戦前には上海に日本人が多く住んでおり、日本租界には日本人墓地も存在したのである。数年前、私は日本人墓地がその後どうなったのか、探してみたのだけれど、全くその痕跡をみつけることは出来なかった。でも、何かが残っているのだとしたら、それらはどこに移されて、どうなっているのだろうか…というのがずっと疑問だったのだ。今回の「BUBBLING WELL CEMETARY」に関する調べものは、日本人墓地の手がかりを見つけられないだろうか…と思ったためである。日本租界は現在の虹口のあたりだから、あの近辺をくまなく探せば、日本風の墓石が建材に使われているのを見つけられるかも知れない。ただし、近年の再開発で、その多くは既に失われているのではないかと思われる。