【中国、尖閣周辺は「先祖代々の伝統的な漁場」と強調】『中国の漁業監視船3隻が同日未明から尖閣諸島(中国名・釣魚島)周辺の海域で巡視活動』周辺海域は「福建省や浙江省の漁民が先祖代々操業している伝統的な漁場だ」と強調 http://t.co/VQlZH5zs #MPJ
— 黒色中国 (@bci_) 2012, 7月 11
7月11日の産経のニュースで、『中国、尖閣周辺は「先祖代々の伝統的な漁場」と強調』という中国新華社の発表を紹介していた。新華社というのは、ニュース配信を行う通信社であるものの、中華人民共和国・国務院直属であるから、公正中立の立場を取るメディアではなくて、中国共産党の代弁者と見ていいだろう。それにしても、「先祖代々の伝統的な漁場」というのは、どれくらい前に遡っての話なのだろうか?それを調べてみようと思う。
まず、新華社の原文を探してみる。
钓鱼岛及其附属岛屿自古以来就是中国的固有领土,附近海域渔业资源丰富,盛产龙虾、飞花鱼、马面鱼、鮐鱼等鱼类,是我国福建、浙江等省沿海渔民祖祖辈辈进行渔业生产的传统渔场。
たぶん原文はこれのようだ。どれくらい歴史を遡ることができる「伝統」なのかは何も説明されていない。
■釣魚島
百度百科(中国のウィキペディアみたいなもの)で引いてみても、中国の釣魚島付近における漁業がどれぐらい昔からあったのかは見当たらない。
同ページのこちらに
《更路簿》、《順風相送》等中国古籍完整记载了中国渔民在此海域的航线。
…とある。『更路簿』や『順風相送』などの中国の昔の本の中に中国漁民のこの海域における航路が記録されている…とのこと。
『更路簿』は、
《更路簿》,又称《南海更路经》,是海南民间以文字或口头相传的南海航行路线知识,它详细记录西南中沙群岛的岛礁名称、准确位置和航行针位(航向)、更数(距离)和岛礁特征,它是千百年来海南渔民在南海航行的经验总结和集体智慧结晶。
海南(たぶん海南島のことか)の民間に伝わっていた文字と口伝の南海航路知識をまとめたもの。尖閣諸島に関する詳細な記載内容は不明。
『順風相送』は、同様に航路についての本。明代か元代に書かれた…とある。尖閣諸島に関する記載について調べてみると、他のページに一部が載っていた。
“……北风,东涌开洋,用甲卯,取彭家山。用甲卯及单卯,取钓鱼屿。南风,东涌放洋,用乙辰针取小琉球头,至彭家、花瓶屿在内。正南风,梅花开洋,用乙辰针,取小琉球。用单乙,取钓鱼屿南边,用卯针……”。
これは単に、どちらに進めば何がある…というのを書いているだけで、そこに「釣魚嶼」(釣魚島…魚釣島のこと)がチラっと出てくるだけ。これだけでは、ここで古くから漁が行われていた確実な証拠にはならないのではないか。
そして、元々の新華社の報道では、
…我国福建、浙江等省沿海渔民祖祖辈辈进行渔业生产的传统渔场
「我が国の福建、浙江などの省沿海漁民が先祖代々漁業を行なってきた伝統漁場」とある。海南島は「など」の中に含まれているのかも知れないが、メインは福建と浙江である。
『更路簿』の記録者は海南島の人であり、『順風相送』の方はよくわからないものの、序文の中に『過洋牽星術』という星を測量する航海技術が出てくる。漢代からある航海技術だそうだが、『順風相送』は、民間伝承集の『更路簿』に比べてレベルが高そうな本である。漁民からの情報も収録されているのかも知れないが、魚釣島に関する情報は上記のとおりだ。
元寇が日本へ来た時にもこの航路案内本が使われた…とのことで、この本に中国漁民が過去にどのような活動をしていたのか…という記録を求めるのは難しいかもしれない。
いずれにせよ、上記2つの古文献は、中国漁民が「尖閣諸島で先祖代々漁業を行なってきた」ことを直接的に証明するものではなさそうだ。
では、尖閣諸島で先祖代々漁業を行なってきたという福建、浙江の漁民の民間伝承などに、釣魚島は出てくるのだろうか?そちらの文献を探した方が早いだろう。
たった「50年」で「先祖代々の伝統的な漁場」?
一つ、心当たりの文献がある。
福建の晋江といえば、あの尖閣沖漁船衝突事件の船長の町である。以前、あの事件の際に、この市の歴史を見つけていた。しばらくの間、リンク切れになっていたが、昨日試しに開けてみると、復活していた。但し、一部が「伏字」になっていた。中国にとって都合の悪い情報が隠されているのであろうか。
この晋江市の釣漁業の歴史を見ると、明清の時代からこの地域では漁が行われていた。
季节性地转移到浙江渔场钓带鱼
…とある。帯魚とはタチウオのこと。冬になるとタチウオが回ってくるので、それを追って浙江省の漁場に出ていたのだろう。
1964年开辟了澎湖沟附近一带的“远南渔场”(钓带鱼)
…という記載が出てくる。1964年から澎湖溝(台湾澎湖島付近の海溝)付近一帯の遠南漁場が開拓されたらしい。こちらでもタチウオ漁のために行ったらしく、私の個人的な経験でも、タチウオは上海とか浙江省ではよく食べられている魚である。だから、晋江の漁業というのはタチウオと共にあり…ということなのか。1964年になってやっと澎湖島付近まで行けたのだから、それ以前の「先祖代々」の大昔から、尖閣諸島へ行っていたとは到底考えられないのである。
60年代中后期,钓船迅速向机帆化发展,渔场扩展到江苏吕泗渔场
…1960年代後期に、漁船は機帆化が急速に発展し、漁場は江蘇省呂泗漁場まで拡大した…とある。江蘇省呂泗漁場とは、
▲大体このあたり(沿岸部付近の矢印の地点…「盐城市」の東側の海域)。上海よりも北側である。距離的には、福建から尖閣諸島まで行っても充分の距離になるが、ここの漁民は、陸見(おかみ…陸地を目視しながらの航海)は出来ても、絶海の孤島である尖閣諸島へ行けたのかどうかは怪しい。いずれにせよ、前世紀60年代の話であるから、50年ほど昔の話。これを「先祖代々」と呼ぶのは無理であろう。
福建の晋江では、比較的小規模・小資本による漁業しか行われていなかったのかも知れない。他の福建浙江の漁村で、はるか1千年以上前ぐらいから、尖閣へ漁に行っていた人達がもしかしたらいるのかも知れないが、今のところはそれらしき記載を見つけられていない。
新華社発表の『尖閣周辺は「先祖代々の伝統的な漁場」』という主張の根拠は、今のところよくわからない。歴史好きの彼らだから、そういう歴史的事実があれば、ここぞとばかりに、その詳細を並べ立てているのかと思いきや、百度百科にも載っていない。これらに関する詳細な情報が公開されるのを待つ他ないようである。