黒色中国BLOG

中国について学び・考え・行動するのが私のライフワークです

【英国観戦艦隊の記録に見る】日清戦争における「旅順虐殺事件」は清国兵による犯行か?

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▲旅順口で掠奪をする日本軍?でもちょっと何かおかしいみたいです…

昨日ツイートした中で最も気になったのはこれであろう。

この写真(といおうかイラストですね)について調べてみたところ、幾つかのことがわかった。今日はそのことについて書いてみようと思う。

まず、幾つかの情報をまとめていこうと思う。

  • この上掲の画像は右下に「LIFE」と書いてある。現在「LIFE」のサイトでは写真アーカイブが公開されていて、古い写真を取り出すことが出来る。その時このように「LIFE」という文字が写真に入るようになっているのである。ブログへの転載も非商用でなければ可能。今後使ってみようと思っているものの、検索機能がイマイチである。上掲の写真は残念ながら発見することが出来なかった。
    http://www.life.com/

  • 問題の写真は環球網の歴史的な写真を扱ったコーナーに「英国海军记录的甲午战争」(英国海軍の見た日清戦争)というタイトルで掲載されたものでその20番目の写真である。念の為、魚拓も取っておいた。(※上記は執筆時の状況。現在は別のサイトに同じコンテンツが掲載されているため、リンクはつけかえております)
    【引用魚拓】http://bit.ly/8KTWsF

  • 最近、何かと毎回書いているような気もするのだが、敢えてもう一度書かせていただくと「環球網」というのは「環球時報」という中国で発行されている新聞のウェブサイトである。環球時報は人民日報社が発行している。「人民日報」という新聞は有名であるが、詳しく書くと中国共産党中央委員会の機関紙である。普通の新聞ではない。実のところ、中国で人民日報をキッチリ毎日読んでいるような人は少ない。普通の人が読むような新聞ではないからだ。中国のコンビニや「報刊亭」と呼ばれる街中の新聞スタンドでの売れ線は「晩報」と呼ばれるタイプのタブロイド新聞である。日本の夕刊新聞なんかとほぼ同じと見ていい。娯楽要素が強く、三面記事だのゴシップだの芸能ネタがたくさん載っている。「環球時報」はこのセクターのメディアである。但し他の「晩報」と違うのは全国紙である、ということだ。いわゆる「晩報」系というのは、例えば「北京晩報」とか「新民晩報」(上海で発行)など基本は地方紙なのである。環球時報は人民日報のネットワークを使って全国規模で発行されるタブロイド新聞なのだ。この新聞は世の中のタブロイド紙が煽動的であるのと同じく、非常に煽動的であり、洗脳的でもある。2005年の反日暴動の際には積極的に反日記事を繰り返し掲載していたこともあり、人民の煽動に大きな役割を果たした一つといえる。もちろん現在も反日的な内容の記事を多く掲載しており、ウェブサイトの方でもたびたび反日侮日の記事が登場する。今回の問題の写真もその一連であると見ていいだろう。

  • これら28枚の画像は一部写真が含まれ、イラストはたまに筆致が異なる。キャプションが英語のものとフランス語のものが混在しているため、元々28枚全てが一つの組みになったものとは考えにくい。英国の観戦艦隊の記録がどうして英仏混在のキャプションになるのかよくわからない。

さて、これから本題である20番目の写真の詳細に入る。

アーサー港に出現した変な帽子の日本兵?

  • 【ポート・アーサー?】
    20番目の写真を拡大して見るとイラストのタイトルは「THE JAPANESE AT PORT ARTHUR」となっているが、環球網がつけたタイトルは「1895年,日本軍進攻阿瑟港」となっている。「1895年、日本軍が阿瑟港に侵攻した」という意味だが、「阿瑟港」とは何か?これは旅順港ことで、英語で「ポート・アーサー」というのはアヘン戦争の時に英国海軍のアーサー中尉が率いるフリゲートが寄航したことが名の由来だそうだ。「阿瑟」は「アーサー」の音訳であり、ピンインでは「a se」(アーセー)になる。現在、一般的に「阿瑟港」というのはオーストラリアのタスマニア半島にある「ポート・アーサー」のことで、中国語で正確に書けばこれは「日本軍進攻旅順口」とならなければおかしい。たぶん担当者は翻訳作業中に「PORT ARTHUR」をネット検索で引いたのではないか?百度で引けば「旅順口」よりもタスマニアの「阿瑟港」方が目に付くのである。

  • 【1895年?】
    環球網がつけた中国語キャプションは「1895年,日本軍進攻阿瑟港」である。旅順占領は1894年の11月21日に行われており、1日で戦闘は終わっている。1895年1月に日本軍は黄海を渡って対岸の山東半島へ向っているので「1895年、日本軍が旅順港に侵攻する」というキャプションはどう考えてもおかしい。元の英語タイトルは「THE JAPANESE AT PORT ARTHUR」で1895年とは書いていない。他のキャプションは文字が小さすぎて何を書いているのかわからないが、写真を拡大してよーく見ると「THE JAPANESE AT PORT ARTHUR」の右横に手書きで「1895」と書かれてある。環球網の担当者はこの数字を見たのではないか。この数字はこのイラストが刊行された年である可能性もある。

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  • 【服装と帽子】
    この絵の中で刀を振り回して物品を奪い暴れまわっている男たちは白いズボンをはいて、上着はダブダブの黒か白、変な形の帽子をかぶっている。これを見て「これはどこからみても日本軍人にしか見えない!」という人は、まず日本人の中にはいないと思う。当方は別にいじわるなつもりで「また中国が捏造しているんだろう!そのウソを暴いてやろう!」と考えてこの写真を鵜の目鷹の目に見たのではない。たまたま何気なしに見ていたら「1895年、日本軍が旅順港に侵攻する」とあったので、どれどれ…と見てみたら、全然日本兵ではない姿かたちの人が描かれていてびっくりしてしまったのである。たまに筆致が変わるので複数いるのかもしれないが、この28枚を書いた絵師はかなり詳細にわたって日本兵・清国兵の身なりや装備を描いている。だからこの20枚目だけで、混同していい加減に描いてしまうことは考えにくい。

  • 【大清海軍巡洋艦“海折号”砲兵記念写真】

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    もうこれ以上の詮議は無用…はっきり言ってこの人たちが旅順で暴れていたのではないか?というようにしか見えない。写真のキャプションは「海折号枪炮官合影」となっている。「枪炮」は「銃砲」、「合影」は「集団での記念撮影」ということである。この海折号が1894~1895年に旅順にいたかどうかはわからないものの、彼らが着ている服装が当時の清国海軍の制服であった可能性は高い。可能性が云々というよりも、例の19番目のイラストに出て来る暴徒たちと海折号砲兵の姿は瓜二つである。 

  •  なぜキャプションは「THE JAPANESE AT PORT ARTHUR」となったのか】
    結局のところ、本件はこれに尽きる。どうみても日本兵には見えない格好の暴徒たちのイラストに「THE JAPANESE AT PORT ARTHUR」と書かれているのがおかしいのである。その理由を追求するとなると、これといった他の資料があるわけでもない115年前の事なので、想像する他ないのだけれど、たぶん絵師が書いた時にはその通りの服を着ていた人たちが暴れていたのだろう。この画像のオリジナルが、このイラストの初出であるかどうかはわからない。初出の時は「旅順で暴れる清国兵」というタイトルだったかも知れない。ウィキペディアの「旅順虐殺事件」には「清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡」と書いてある。旅順口の戦いがたった1日で終わってしまった後に、清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡し、暴徒と化して地元の民家を襲って略奪をしたところを絵師が描いたのではないか。ところが絵を描いた後、欧米世論は「日本軍が旅順で虐殺を行った」ということになってしまったのでキャプションだけを変更した…という風に考えることも出来る。

当方はこの一事を以て、鬼の首を取ったかのようにして「それみろやっぱり捏造だ!」という気は無い。歴史の真相の追求というものは、もっと慎重に取り組まなければならない問題である。ただ、今回の発見したこの奇妙なイラストは、虐殺の真相を考える上で一つの資料になるのではないかと思う。

確実にいえることは、環球網はもうちょっとまともな担当者に替えたほうがいい、といことだろう。もし私がこの記事の担当ならば20枚目のイラストは絶対に使わなかった。これに限ってのことではなく、中国人にこの手の歴史ネタを扱わせると、非常にいい加減な仕事をするのである。ウソをつくのならばもっと完璧に、真実であるというならばもっと慎重を期して仕事に取り組むべきではないだろうか。