黒色中国BLOG

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【中国・北京】1952年アジア太平洋地域平和会議における宋慶齢の上海訛りの演説

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YOUTUBEで、1952年に北京で開かれたアジア太平洋地域平和会議における宋慶齢の演説の記録フィルムの一部と思われる動画を見つけました。

再生は以下から。

【目次】

宋慶齢の演説


宋慶齡的縯講(上海話,吳語口音) - YouTube

上海で老人と話していると全く何を言ってるのかわからず、頭の奥がクラクラしてくるのですが、この宋慶齢演説もそれに近いテイストがあります。たぶん上海語の演説なのではなくて、上海語訛りの普通話で演説しているのではないかと思いますが、当方が上海語を一切解さないので、なんとも言えません。

字幕の上に「新影」という時が見えます。日本では「新影」というと「柳生新陰流」とか「新・影の軍団」の略称とかになるようですが、中国では「中央新聞記録電影制作廠」の略称のようです。

「中央新聞記録電影制作廠」公式ウェブサイト(中国語)
http://www.cndfilm.com/

記録映画専門の組織のようです。

1952年アジア太平洋地域平和会議のよびかけ(法政大学大原社会問題研究所)

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/26/rn1954-621.html

アジア・太平洋地域の諸国民が、戦争の脅威をとりのぞくため、もっとも早い機会に、地域的平和会議をひらくことがのぞましいということが、一九五一 年にひらかれた世界平和評議会のベルリン会議、ウィーン会議で決議された。また、一九五一年一〇月、全インド平和評議会が、北京でこの会議をひらく仕事を 中国へ委託すると提案した。  一九五二年三月二一日、中国人民救済会主宰宋慶齢、中国平和擁護委員会会長郭沫若、中国総工会副会長劉寧一など一一名連名で、つぎのよびかけがおこなわれた。

動画はたぶんこの会議での演説を記録したものではないかと思います。

日中国交回復前に「新中国」へ行っていた日本人たち

7秒目から数秒間「日本」と書かれたネームプレートが見えます。この席に座っているのは日本からの出席者なのでしょう。上記の法政大学大原社会問題研究所のページでは日本からの出席者についても触れられているので、たぶん間違いないと思います。

でも、1952年?

そんな時に北京で開催される国際会議に出席する日本人がいるとは!まだこの時期は日本と大陸は国交を回復していないのですが、出席者は日本の政府機関の人でしょうか?

六月三日から四日間、北京で準備委員会がひらかれた。この会議に、日本準備会代表として、大山郁夫、松本治一郎、宇田耕一、神近市子、桜沢如一、畑中政春の六名を送ることに決定していたが、日本政府は旅券の発行を拒否した。だが、そのころちょうど、高良とみ、帆足計、宮腰喜助の一行が、ソヴェトから 北京に到着していたので、日本準備会は、準備委員会に日本代表として出席するよう要請し、上記の三名が「アジア・太平洋地域平和会議準備委員会宣言」に署名した。

九月二日、日本準備会は六〇名の代表団を決定した。一〇日、東京で「旅券獲得期成大会」をひらき、松本治一郎団長も九州から上京して討議に参加した。しかし、日本政府は、二〇日にいたりまたもや旅券の発行を拒否したのである。

一方、九月下旬、北京には、金子健太、亀田東伍、中村翫右衛門ら八名が現れ、またヨーロッパをまわって南博が到着し、さらに巴商事常務取締役の桜井英夫日中貿易具体化のため香港から中国へ入国していた。日本準備会は、これら一四名を、正式の日本代表として承認した。

アジア・太平洋地域平和会議の本会議は、一〇月二日にひらかれ、一三日に終った。同会議は、
(一)世界人民にたいするアピール、
(二)国連へのメッセージ、
(三)日本問題に関する決議、
(四)朝鮮問題に関する決議、
(五)文化交流に関する決議、
(六)経済関係に関する決議、
(七)民族独立問題に関する決議、
(八)婦人の権利と子供の福祉に関する決議、
(九)五大国平和条約締結運動の強化に関する決議、
(一〇)アジア・太平洋平和連絡委員会の設立に関する決議、
(一一)諸国民平和大会の招集を支持する決議をおこなった。議長団には、日本代表団から松本治一郎(中村翫右衛門が代理)、金子健太、南博が参加した。

2人くらい調べてみようと思います。

大山郁夫(ウィキペディア)

戦後、1947年に帰国。1950年の参院選に日本社会党・日本共産党などで構成される全京都民主戦線統一会議(民統)の支援を得て立候補、途中社会党が馬谷憲太郎を擁立して戦線に乱れが生じるものの当選する(馬谷は落選)。なお、同年には京都府知事・京都市長の選挙も行われ、それぞれ民統が推した蜷川虎三・高山義三が当選している。1951年の12月にスターリン国際平和賞受賞。参院議員在職中の1955年に死去。

松本治一郎(ウィキペディア)

福岡県出身の日本の政治家、実業家。部落解放運動を草創期から指導し、部落解放同盟からは「部落解放の父」と呼ばれる。

1953年(昭和28年)、日中友好協会初代会長に就任。

ああ、なるほど・・・という感じですね。いわゆる「友好人士」の原点なわけです。

大山郁夫が受賞した「スターリン国際平和賞」ってこのネーミング、すごいと思いませんか(笑)。

国際スターリン平和賞(ウィキペディア)

1949年12月21日、ソ連邦最高会議はスターリン70歳の記念として、ノーベル平和賞に対抗すべく、国際スターリン平和賞の制定を行った。ただし、受賞者は1年に複数のソビエト国外の主にソ連の国家行政、とりわけ社会主義、共産主義への貢献に対する褒賞の性格が強い。

ちなみに宋慶齢も1951年に国際スターリン平和賞を受賞しています。大山郁夫と一緒に受賞したのでしょう。

この辺りのことを調べていると、50数年前に今とは全く違う世界が存在していたように思えるのですが、その頃の事柄と人脈が現在の世界を作り上げているのは間違いないようです。

それにしても宋慶齢、もうちょっと訛りをどうにかできなかったんでしょうか?字幕があるから意味はわかりますけど、同時通訳で聞いている外国人は別として、これを生で聞いている中国人は、たぶんかなりきつかったんじゃないかと思います。この前の毛沢東よりはマシですけど。でもこのように並べて考えてみると、中華人民共和国というのは普通話が上手くない人たちが創った国なのでしょうか。ちょっと意地悪い言い方をしますと、言葉で、話し合いで、議論を通じて創られた国ではない…ともいえるのかも知れません。